朱はもう二十四である。
主上はまだ十六であらせられるというから、こんな年増をあてがわれても楽しくなかろうと思うのだが、とはいえお役人にはさからえないのが市井の女である。妹の付き添いとして行った試験会場で「後宮に来るように」とのお達しが出たとなれば、たとえ「あんたの目はどうなってんだ」と思っても、それにしたがうしかないのだ。
しかし妹を見出したという点についてのみ、朱は役人の目を高く評価していた。
妹の華弥は十五、だれもが振り向くような器量よしで、朝焼け色の長い髪は絹糸のごとくつやめき、黄金色の目の輝きは貴婦人の耳環にも勝る。可憐なくちびるから出る声はやさしく、よく気が利くし頭もいい。まったく、土まみれの農作業や、あばら屋の奥での紙漉きなどさせるのがもったいないほどの、自慢の妹なのである。
対して、朱自身に自慢できるところはなにもない。腕っぷしには多少の自信があるが、なにしろそれで行き遅れになったのだからしようがない。
嫁にも行けず、さりとて一応は女であるがゆえに武官を志すこともできず、ただ頼まれた力仕事をこなすだけの毎日。強いて長所をあげるとすれば、そのたくましい長身に見合う立派な乳がついていることくらいか。
朱は周囲を見まわした。次いで自身のからだを見下ろした。
やはりどう見ても場違いだ。
さすが、主上の嫁になれるかもしれないとだけあって、周りの娘たちは気合いが入っている。みな貧しいなりに精一杯のおしゃれをしたのだろう。真新しい麻の着物はたっぷりとすそがあるし、髪も都風に結い上げて華やかだ。そしてなにより、若くてかわいい。
朱はというと、着古した男物の服に日焼けした肌。乳はまあいいとして、それ以外には女らしさのかけらもない。くせの強い赤毛は束ねてもなお好き勝手に暴れ、ぴょんぴょん跳ねながら背中や胸もとに広がっている。
この赤毛が厄介で、なにしろとにかく色が悪い。
妹の華弥のように明るく鮮やかな赤ではなく、それをぐっと暗くして泥に混ぜたような赤。まあ簡単にいえば、血の色だ。
「それだってあたしはきらいじゃないけど」
と朱は思う。しかし、他人をいい気分にさせるかといえばそうではない。
むかし野犬の群れからひとを助けたときなどは、感謝されるどころか気味悪がられた。この髪がすべて返り血に見えたのだという。
なるほどそれはおそろしかっただろう。実際には野犬を追い払っただけで傷ひとつつけていないし、朱自身にもまったく怪我はなかったのだが。
これについてはのちに誤解もとけて、結果的に友人が増えたからよかったものの、さてそんな自分を主上のおそばに置いてよいものかとなると、いや絶対にいかんだろ、と思う。朱自身が思うのだから間違いない。しかし役人は、「後宮に来い」と言う。
「世も末ってやつかねえ」
朱はため息とともに、最近流行りの言葉を吐き出した。
正直なところ、朱にはなにをもって「世も末」だとするのかがよくわからない。が、この自分を後宮に召し上げようなどというのは狂気の沙汰としか言いようがなく、なるほどたしかに「世も末」なのかもしれないなと思った。
「はい、では合格者の方はこちらへ」
役人のピンと張った声がする。「ほかのみなさんは、おつかれさまでした」という言葉に肩を落とした娘たちが、すごすごと出口へ向かった。
「姉さん、姉さん」
ぼうっと突っ立っていた朱を呼んだのは、間違いない、かわいい華弥である。見れば整った胡桃型の目をこちらに向けて、ちいさく手招きしていた。
ぱっと見ただけで働き者とわかるのに、優雅ささえ備えた手指。その動きについ見とれてしまう。我が妹はなぜこんなにもすばらしいのか。
そんな華弥の格好も、朱とたいして変わらなかった。動きやすいひざ丈の貫頭衣はいつもの仕事着で、髪は丁寧に梳ってあるがとくべつ趣向をこらしているというわけでもない。それでもやっぱり、華弥はいちばんなのだった。
「合格者の方は、こちらへ」
再び役人の声が響いた。糸のような目がじっと朱を見ている。華弥がそのそばで、ちょっと焦ったように手招きを続けている。
それでようやく「おお、あたしか」と気づき、朱は小走りで華弥の横に並んだ。
「えー、では」
役人がひとつ咳払いをした。
気づけば朱と華弥のほかには、この都から来たという、ひょろっと細長い男しかいない。驚いたことに、朱はたった二人のうちのひとりに選ばれたようだった。
「お二方には、これからすぐに都へ出立していただきます」
「すぐに」
「ええ、すぐに。つまりいますぐにということです」
朱も華弥も戸惑った。もとより身軽な貧乏二人暮らしなので荷造りなどは必要ないが、となり近所へのあいさつくらいはしておきたいものである。
それを察したらしい役人が、なだめるように片手をあげた。
「残念ながら、あたくしたちには時間がございません」
それからまたひとつ咳払い。そのつぎの言葉が来るまえに、華弥が思案顔で言った。
「ひょっとして、後宮入りには期限があるのですか」
役人は大仰にうなずいた。
「ええ、そのとおり。妃嬪候補をお迎えするのは、天子さまのご即位から四十二日以内と決まっております」
「あわただしいねえ」
と思わず口を挟んでしまったのは朱である。
この六ノ郷から都までは、順調に歩いてだいたい二十日ほど。役人が郷に到着したのは昨夜だから、その日数をかけて来たのであればなるほどたしかに余裕はない。
「あたくしもそう思いますけれど、まあ神々のお定めになったことですから。ともかくその間に、あなたがたよき乙女は、あたくしのような選定官とともに後宮の門をくぐらなければなりません。間に合わなければその時点で失格、選定官も職を失います」
「お役人さまも」
「そうです。あたくしたちは一蓮托生、あなたがたの出世があたくしの出世、そして主上の栄光です。逆もまた然り。ですからなにがなんでも間に合わせる必要があるわけです。ここまでおわかり?」
姉妹はそろってうなずいた。
「それで具体的に、いつまでに都へ行けばいいのでしょう」
華弥が言う。役人ははじめて丸く見えるほど目を見開き、答えた。
「十日後の日没までです」
そしてすぐに糸のような目に戻った。
「……おかしくない?」
思わず、朱はポカンと開けた口からそうこぼした。
「無理じゃない?」
「そこをなんとか」
「いやいやいや、そもそもあんた、なんでそんなにゆっくり来ちゃったのさ」
「まずびっくりするほどあたくしの体力がなかったことと、途中野盗に襲われたこと、それから道を誤ったことが重なったために起きた悲劇です」
「はあ」
都へは朱も二度ほど行ったことがあるから、その道程は知っている。野盗が出やすいのもたしかだ。しかし、都と郷をまっすぐに結ぶ広い官道はしっかりと整備されており、むしろ迷うほうが難しいはずである。
これはもしかして、いっそこのまま失格となったほうが主上のためにもよいのではないか。そう思ったとき。
「行きましょう」
華弥の声だった。
「出発しましょう、いますぐに」
その瞳はいま中天にかかる太陽よりも強く明るく輝き、朱たちを照らしている。朱は息をのんだ。妹のこんな顔を見るのははじめてだった。
「そういう決まりなら、これも試験の一環なのでしょう。でしたら、お答えするのが道理だと思います。わたしはどうしても主上にお会いしなくてはなりません。やらせてください」
朱は感動していた。幼いころから遠慮がちで、わがままなんて一度も言ったことのない妹が、贅沢を夢見ることすらなかった妹が、はじめてみずから望んだのがこの妃嬪候補選定試験だ。付き添いを頼まれて一も二もなく引き受けたが、まさかここまでの思いがあっただなんて考えもしなかった。
ならば、こちらも覚悟を決めねばなるまい。
「よし、行こう華弥」
妹の望みが朱の望み、妹のしあわせが朱のしあわせである。こうなったらとことんまで付き添う以外に、なにがあろうか。
愛おしいその手をとった。振り向いた顔に笑みが浮かんだ。
「姉さん、ありがとう」
それだけで朱は生きていけるのだ。どこへ行っても、なにがあっても。
「わかりました。ではいまこのときより、あなたがたを正式に妃嬪候補として待遇いたします」
役人が両手を大きく広げた。それを左、右と順番に折り、重ねる。
「あたくしは女宮侍補の枝乃です、どうぞよろしく。それで早速ですが、どうなさるおつもり? あたくしの体力のなさは並大抵のものではございませんよ」
なぜだかちょっと自慢げである。朱はなんともいえない苦みを覚えたが、華弥の笑顔は変わらなかった。「大丈夫」とうなずいて、力強く言う。
「わたしに考えがあります」