「いいお湯だったねえー」
まだほかほかする頬をゆるめ、朱はまったりと息を吐き出した。
「ほんとうに」
「主上に感謝ですわ」
と答えたのは華弥、叶舎のほか、なぜか朱にくっついて離れなくなってしまった多数の妃嬪候補である。彼女たちは朱の髪をひと房ずつ手に取り、丁寧に水気を拭きとってくれていた。
なぜこうなったのかはさっぱりわからない。慕ってもらえるのはうれしいが、なにかとくべつなことをしただろうか。
思い返してみても、たとえば掃除の最中に転びそうになった子を抱きとめたりだとか、重いものを代わりに持ってやったりだとか、彼女たちの手の届かないところにあるものを取ってやったりだとか、せいぜいそのくらいしか覚えがなかった。そんなことではこうはなるまい。
もしかして、あの話がよほどお気に召したのだろうか。
入浴中のことである。脇腹にある古傷についてたずねられたとき、朱は軽い気持ちで答えたのだ。「ああ、初恋の傷痕だよ」と。
年ごろの娘たちにはそれだけでじゅうぶんな刺激となったようだ。
黄色い声の大合唱のあと、あらゆる質問が矢継ぎ早に繰り出された。その勢いが対応しきれないほどすさまじかったのと、正直なところ答えるのが面倒だったのとで、朱は「もう終わったことだから」と言ってそそくさと逃げ出したのだが、それがいけなかったのかもしれない。
それからその話題を振られることはなかったものの、こうしてやたらとつきまとわれるようになってしまったのである。
好奇心とはおそろしいものだ。まあでも、そのおかげで仲よくなれたのはよかった。なかには「おねえさまとお呼びしても?」と聞いてきた子までいるくらいである。もちろん快諾した。事実、最年長は朱であるらしいから、もうみんな妹のようなものだ。
「朱ねえさま、その服とってもよくお似合いです」
朱の正面に座った子がにこにこしながら言う。彼女はさきほどまで髪をぬぐってくれていたのだが、ほかの子と交代したようだ。
「そうかな。ありがとう」
朱はすこし腕を上げて、袖の端をつまんだ。しなやかな光沢のある白い生地。装飾はないが一目で上等だとわかる。
これを、いまは候補生全員が同じように身にまとっていた。ただひとつ、ちがいをあげるとすれば、朱の着ているものだけ仕立てが男用であるということだ。
温泉からあがった朱たちに、典侍が着替えとして差し出したのがこの服だった。説明によればこれは妃嬪候補生の制服で、身なりによる不平等が起きないようにするためのものだという。もちろん本来は、朱もほかの候補生と同じ女物を着るべきである。それがなぜこうなったのかというと、単純な話、大きさが合わなかったのである。
ひらひらのきれいな服を着てみたくなかったといえば嘘になる。しかし自身に似合うとも思えないし、男物のほうがどう考えても動きやすい。それにもう長いこと男装で過ごしてきたから、いまさら女らしく装うというのも気恥ずかしかった。
それよりなにより、華弥である。
貴人と同じ恰好をした妹の、なんと麗しいことか。
ほんとうにうれしかった。あのまま郷にいたら、こんなにいいものを着せてやることなど絶対にできなかった。
白一色の衣装なので華やかさには欠けるが、むしろそれがいい。華弥の清楚で可憐な魅力が際立っている。朝焼け色の髪もますます美しく、みずから光を放つように思われた。
華弥のこんな姿が見られるのなら、このまま妃嬪を目指すのも悪くはないかもしれない。
朱がにやついていると、典侍が数名の女官をしたがえてやってきた。妃嬪候補をすべて収容してもまだ余裕のある大部屋に、背筋の伸びるような声が響く。
「みなさん仲よくなられたようで、たいへんけっこうなことです」
いささか困惑の色が見える。朱はその視線に苦笑いで答えた。
典侍は軽く咳払いをして、素知らぬ顔で告げた。
「これより、部屋割りのくじ引きをおこないます。みなさんこちらへ」
室内がざわついた。といっても緊張や不安によるものではない。驚き半分、期待半分といった感じである。朱もこんな楽しみがあるとは思わなかったから、どきどきわくわくしながらくじ引きの列に並んだ。
結果、同室になったのは華弥、叶舎のほか、もうひとりを加えた三人だった。
「偶然にしちゃできすぎじゃないかね」
割り当てられた部屋の、四つ並んだ寝台のひとつに身を投げ出しながら言う。ちなみに「寝台」という名称はついさっき知った。叶舎が教えてくれたのだ。
「まあ! わたくしと一緒でうれしくないんですの、朱さん!」
「そうよ、姉さん! わたしたちこんなにうれしいのに!」
ねー、と叶舎と華弥が両手をあわせる。かわいい。
「うれしくないわけじゃないけど、あんたらとずっと一緒だと疲れるからねえ」
ほんとうは華弥と同室になれて飛び上がるほどうれしい。が、ここは大人の落ち着きを見せておくべきだろう。いつまでも泥遊びのときのような気分を保てるほど、朱は若くないのである。
ふくれ面をする少女たちの向こうで、やわらかい声がした。
「ふたりとも一等元気だものねえ。わたしも今日は疲れたわあ」
独特のおっとりとした話し方をする彼女はもうひとりの同室で、名を呼覚という。目立つ顔立ちではないが口もとの黒子が印象的な、どことなくしっとり濡れた雰囲気を持つ二十二歳である。
「呼覚さん、あんたがいてくれてよかったよ。同じ二十代どうし、仲よくやっていこうね」
「もちろんよお。よろしくねえ、朱さん」
朱のとなりの寝台に腰かけた。反対側の隣に華弥が、その隣に叶舎が陣取る。
「それにしても、今日の試験はふしぎでしたわね」
叶舎が小首をかしげると、華弥がそれにうなずいた。
「ええ。やっぱり叶舎さんも気になりましたか」
「そうよねえ、わたしもよお」
呼覚までもが同調する。しかし。
「へ? なにが?」
朱にはなにがなんだかさっぱりわからなかった。
叶舎がこちらを向き、つと真面目な顔をした。化粧を落としてもなおはっきりとした目鼻立ちは迫力があり、朱は思わず唾を飲みこむ。
紅はなくともあざやかなくちびるが、おもむろに開いた。
「あの温泉ですわ。主上と大后だけが使える神聖な湯殿なのに、なぜあんなに荒れていたのかしら」
それでようやく朱にも合点がいった。言われてみればたしかにそうだ。
「いまの主上が即位されるまでにすこし間があったとしても、おかしいですよね」
「もう何年も放置されていたみたいだものねえ」
華弥と呼覚も首肯する。
「それに、どうしてわたくしたちにわざわざあんなことをさせたのか……」
そう言いながら、もうほとんど答えは出ているようだった。朱以外の三人が目くばせしあい、やがて叶舎が代表して口を開く。
「主上は、わたくしたちになにかを伝えようとなさっているのかもしれませんわね」