なんだかよくわからないが黒光りする床や柱、こまかい細工のほどこされた調度品、それらをほのかに照らす灯りのなかで、老女の白髪と贅沢に布を使った衣服の織り模様がきらめく。引きずるほど長くたっぷりしたすそに、肩から垂れるひらひらした細長い布はなんの意味があるのだろうかと思うが、これが貴婦人の装いであることは朱も知っていた。
「典侍さま」
と枝乃が呼んだ老女の、真っ白に塗られた顔がこちらを向く。眉間に描かれた花のような文様と、くちびるだけが赤い。厳格そうに見える顔には深いしわが刻まれているが、若いころはさぞかしもてはやされたのだろうと思えた。
「よく、おいでなさいました」
ピンと美しい姿勢に似合う声。こちらまで背筋が伸びるようだ。
「単刀直入に聞きましょう。これを持ち込んだ意図は、なにか?」
そう言う典侍の手もと、瀟洒な卓の上には、手のひらにおさまるほどの石が置かれている。よく見るとそれには細く編み込んだ草が巻かれており、たしかになにやら意味ありげだった。
「わたしたちには後宮に入る権利があるということをお伝えしたかったのです、典侍さま」
と即座に答えたのは華弥である。ということは、華弥が枝乃に渡した包みの中身が、あの石と草だったのだろう。
「権利とな。期限は主上のご即位より四十二日後の日没、本日は五十二日目。十日も過ぎておりますぞ」
刺すような眼光に枝乃が肩を震わせる。しかし華弥は臆することなく、おだやかに続けた。
「いいえ、その期限が嘘だったのです。嘘といいますか、表向きのものに過ぎなかった。ちがいますか」
典侍の眉がわずかに動いた。
「なぜ、そう思うのです」
一呼吸置いて、華弥が答える。
「神代のむかし、天ノ原より降臨された初代焔星王さまは、六柱の従神さまを率いてこの中つ国を平定され、万和と名づけられました。その後、都と六つの郷を置かれ、それぞれをご自身と従神さまたちで治められることになりましたが、そのときにいちばん難航したのが王のお妃選びでした。そこで王はおんみずから六つの郷を順番におたずねになり、数人ずつお妃を選定されました。その際、王が滞在された日数がひとつの郷に対して七日だったため、今日でもそれを踏襲して妃嬪候補の入宮期限を四十二日以内と定めているのだろうと推測しましたが、まずここまでは合っておりますでしょうか」
朱はそれを聞く途中で考えるのをやめた。
「そのとおりです。続きを」
典侍がうなずいて、再び華弥が口を開く。
「しかし、王があまたのお妃のなかから第一の大后としてお選びになったのは、遅れてやってきた火明比売さまでした。彼女は王がご即位以前から深い縁を結んでおられた方ですが、お妃選びのときにはわけあってお会いになることができなかった……。裏切られたとお思いになった王は激怒されました。けれど出立の朝、彼女がひそかに置いていった結び石をご覧になり、その真心を知って涙されたといいます」
そう言って、典侍の手もとの石に目を向けた。
「思慮深い比売は無理にお妃になることを望まれませんでしたが、その才器と天の神々の助けによって十日後に王と再会されました。そして大后となられ、王とともに万和国を繁栄へと導かれたのです。この歴史を、いまの後宮がないがしろにするはずはありません」
「なるほど、それで遅れてきたことを正当化するつもりですか」
典侍の厳しい声が響く。枝乃が白目をむいた。朱はその腕を引いて支えてやった。
「いいえ、正当化ではありません」
華弥がパッと顔を上げる。
「これが正当なのです」
じつに清々しい笑顔だった。
「正当、ですと?」
「はい。妃嬪に必要なものはまず真心、それに理解、それから機転だと焔星王さまも言っておられます。四十二日という期限は、とても平等とはいえません。たとえば都にもっとも近い一ノ郷の方々は、どんなにゆっくりしても五日とかからず宮城を目にすることができるでしょう。ですがわたしたち六ノ郷の者は、順調に休みなく歩いたところで間に合うかわかりません。それなのに、選定官さまには護衛もお付きもなく、つねに危険にさらされていました。これはあえてそうすることで、選定官さまと、その方の選んだ妃嬪候補の反応や態度を見ようとしたのではないでしょうか」
そこで一度言葉を切り、つと真顔を見せた。
「この考えが正しければ、わたしはこれを嫌悪します。わたしのような素性の知れない娘が、ある程度だまされるようなかたちで試しを受けるのはしかたのないことでしょう。けれど、このやり方はあまりに選定官の方々を軽んじています」
枝乃がびっくりしたように首を伸ばし、華弥を見た。そしてゆるく開いたくちびるをこまかく震わせ、心なしか頬を上気させる。
おそらく朱も同じだった。
妹の烈しさを、うちに秘めた強い炎を、真正面から受けたのだ。胸を打たれぬはずがなかった。
いくつか無音のときが過ぎた。
華弥は静かに呼吸を整え、やがてゆっくりと腰を折った。
「これがわたしの答えです、典侍さま」
典侍は黙って華弥を見ている。灯りがどこからか吹き込んだ風に揺らいで、その影をちらつかせた。
「――よろしい」
そんな言葉が朱たちの耳を打ったのは、すべての影が完全に停止したそのときであった。
「候補生宿舎の一室を与えます。今夜はそこでおやすみなさい」
華弥が輝きに満ちた顔を上げた。
「ありがとうございます!」
「勘ちがいせぬように。これは第一の試験。そちはまだ、ただの妃嬪候補です」
典侍が華弥に歩み寄る。間近で見ると思ったよりもちいさく、華奢なのだと知れた。
「我が国の後宮は実力主義です。お励みなさい」
と、そこでなぜか華弥の目が泳いだ。はじめて自信なさげに目を伏せ、もごもごと口を動かす。
「あのう、姉は……」
ちらりと朱を見上げた。
「あ」
朱はすっかり失念していた。そういえば一応、朱も妃嬪候補なのである。
しかし華弥とちがって、なにか意見を述べたわけでもすごいことをしたわけでもない。もはや付き添いもこれまでかと思われた。
「ふむ」
すると、典侍が動いた。朱のまえに立ち、つま先から頭のてっぺんまでをじっくりと眺める。それを何度も往復するので、なんだかぞわぞわとくすぐったかった。
しばらくして、きれいに真っ白な頭がうなずく。
「まあ、よろしいでしょう」
「へ? いいの?」
「運も実力のうちと申します。それに、枝乃侍補が選んだのであればまちがいはなかろう」
とたんにふたつの笑みが咲いた。
「典侍さま!」
「姉さん!」
枝乃がむせび泣き、華弥が朱の胸に飛び込んでくる。それをしっかりと受けとめ、朱は朝焼け色の髪をなでた。
「姉さん、よかったあ」
「あんたのおかげだよ。ありがとね、華弥」
ぎゅっと抱きしめる。あたたかな陽だまりのにおいがした。
「さ、もうおやすみ。ほんとうの試験は明日の朝からです。しっかり備えなされよ」
典侍が衣擦れの音をたてながら、卓のほうへと戻っていく。その背中にいちばん大きな声で返事をしたのは、枝乃だった。