さて妃嬪の仕事といえば、第一に子づくりである。妃でも尚侍でも、はたまたほかの位でも、まず求められるのはなんといっても次代の王を産むことである。
後継者選びに母親の位は関係ない。王が崩御すると天命が下り、その子女あるいは血族のうちからつぎの王が決まる。天命は受けた本人にしかわからないが、体にしるしがあらわれるのでごまかしはきかないという。
そこにひとの思惑が入り込む余地はない。よって他国では絶えないという後継者争いとは無縁のここ、万和国では、とりあえず天孫の血統を絶やさぬことだけを考えてどんどん子をつくるのがよしとされるのだ。
ではそのためになにが必要になるかというと、まず、健康な肉体である。
「はい、そこ! もっと足を上げて! だらけない!」
今日も体錬担当講師が、太い声を張り上げる。彼の熊のような体と立派なひげがますます大きく見えた。
「も、もうむりですぅ……」
何人かが力尽きてへたり込む。それでも彼は容赦しない。
「なに言ってるの! そんなんじゃ元気な赤ちゃん産めないわよ! ホラ立って、できるわよアナタたちなら! できるできる、絶対できる!」
個性的な暑苦しさにはもう慣れた。朱は高速腿上げ運動を続けながら、さてどうしたものかと考えていた。
「ホラホラ、朱さんを見習って! 軽く五百回超えてるのにあの動きよ! もはやおそろしいわ!」
よし来た。こうなれば言い出しやすい。朱は足を動かしたままで振り向いた。
「熊先生」
「だれが熊先生よ」
「その子たちはもう休ませてやって。あたしと比べるのは酷ってもんだよ」
朱だってべつにらくらくやっているわけではない。ただ鍛錬に慣れているから続けられるだけで、息はつらいし足は重い。派手に揺れる乳のせいで肩も凝る。正直なところ、いますぐにでも寝転がりたいのだ。
「無理にやらせたって、それこそ体を壊すだけだ。根性でどうにかなるってもんじゃない。元気な赤ちゃん産むどころか死んじまうよ」
言いながらじわじわと先生に近づいていく。腿上げはやめない。
「みんなのぶん、いくらでもあたしが引き受けるからさ」
「いや、それじゃ意味が――」
といくらか先生が押されてきたところで、座り込んでいた子のひとりが立ち上がった。ふらふらと朱のもとへやってきて、言う。
「朱ねえさま、わたし、やります。ねえさまにばかりつらい思いはさせられません」
「馬鹿だね、あたしはいいんだよ。休んでな」
朱が答える横で、「待って、アタシまるで悪者じゃない?」と熊先生がしょんぼり肩を落とした。
「いいえ、わたし」
なおも青白い顔が健気に訴えようとしたときである。その瞳がふっと焦点を失って、長い髪が大きく揺れた。ガクリと膝が落ちる。
「おっと」
腰を抱いて引き寄せた。間一髪、彼女は倒れるまえに朱の腕のなかにおさまった。
「大丈夫?」
こちらを見る目はぼんやりしているが、「は、はい」と返事をしてくれたのでひとまずよかった。しかし青かった顔が今度は赤い。熱でもあったりしたらたいへんだ。
「先生、この子、朝から具合が悪そうだったんだ。先生があたしたちのこと考えて厳しくしてくれてるんだっていうのはわかるよ。悪者みたいに言ってごめん。でも、いまはあたしの意見を聞いてもらえないかい」
すると先生は深くうつむき、肩を震わせた。気を悪くさせてしまっただろうか。しばらく沈黙が続いたので、朱はひそかに息をのんだ。
やがて、先生のひげ面が急に朱の視界を覆った。
「もうっ、ずるい! 優勝!」
「なにが?」
その後すぐに講義終了の合図が出され、妃嬪候補たちからは安堵と感謝の声があがった。
とまあ、「健康な肉体」という部分では文句なしの優等生である朱であったが、それを妃嬪の仕事に活かすとなるととたんにポンコツと化した。
妃嬪の仕事、すなわち子づくり、それを成し遂げるためにはつまり、主上をその気にさせることが肝要である。
基本的な性教育から寝所においての所作、作法、さらには交わす言葉や褥であげる声のひとつひとつまで、こと細かく徹底的にたたき込まれた。朱はそのたびに真っ赤になりながらがんばるのだが、講師からは「色気がない」とか「瀕死の猪ですか」というような評価を受け、ほかの候補生たちからは「朱ねえさましっかり!」「がんばって!」「かわいい!」などと言われる始末である。
加えて気まずいのは、この手のものには女宮侍補が講師陣として参加しているということだ。
彼らの仕事は筆頭講師の補佐、たとえば言葉による解説だけでは理解しづらいことがら――要するに性技だとかそういうものを、手本としてやってみせることである。といってもさすがにそのものを披露するわけではなく、演劇形式で歴史なども交えながら教えてくれるのだが、その女役として毎回必ず、枝乃が出演しているのだ。
最初はその似合わぬ女装に笑ったものである。枝乃本人も準備のあいだは「仕事でございますから」と言ってむすっとしていたのだが、いざ本番がはじまればまるで別人だった。
色っぽい。
凄絶に、色っぽいのだ。
枝乃は細いが女顔というわけでもなく、美男というわけでもない。特徴にも乏しく、強いていうなら狐っぽい。だからこそ朱はその女装に滑稽味を感じて笑ったのだったが、そのちぐはぐさがかえって彼のうちなる色気を引き出し、最大限に見せつけているようだった。
さらにはこの男、やたらと演技がうまいのである。いや、もしかすると演技ではない、のかもしれない。
枝乃の相手役はだいたいいつも決まっていて、あのだいぶ仲の悪そうな百安だった。叶舎を選出した女宮侍補である。
その百安にもたれかかり、あるいは組み敷かれる枝乃の頬はほのかに色づき、ときおりせつなげに眉を寄せる。うなじにかかる後れ毛の流れ、決して相手と合わせまいとする濡れた視線。そのどれもが熱を持って生々しく、なんというか、こう、友人の情事を白昼堂々暴いてしまったかのような気分になる。
しかし百安のほうはわりと淡々としていて、それがくやしいのかなんなのか、枝乃はいつも苦しげにも悲しげにも見える表情をのぞかせた。
それだ。それがいけない。
その顔が出ると、もう生唾をのむしかない。なにか胸の奥からこみ上げるものが朱の頭を激しく揺さぶり、ただただ「しんどい」としか言えなくなるのである。
それはほかの候補者たちも同じようで、みなで議論を重ねた結果、いつしかこの講義は「枝乃の恋路を見守る会」に変わった。本人に「あんたほんとうは百安さんのこときらいじゃないだろ」と聞いたところ、「そんなわけがないでしょう!」との回答ではあったが。
そんな忙しい毎日を過ごすうちに、春は去り、夏が来た。
すぐに追い出されるつもりだった朱は、まだ後宮にいる。というか、全員、いる。だれひとりとして脱落していないのである。
これは異例のことだと、講師陣は口をそろえて言った。もちろん候補者たちのがんばりもあるのだろうが、主上の意向が働いていることは疑いない。
秋にはもう、正式に妃嬪が決まる。
このまま全員残ることになるのだろうか。それともこれからどんどん落とされるのだろうか。ここまで来たら、みんなで仲よく後宮生活を続けたいと朱は思う。
この四十八人ならばそれができる。それはまちがいない。ただひとつだけ、最近の朱には気になることがあった。
華弥が、どこかよそよそしいのだ。
今日も眠るまえにすこし話をしようとしたら、やんわり断られてしまった。べつに嫌われているわけではない、と思う。けれどなにかが、決定的に以前とはちがう。
とてもそのまま眠る気にはなれなかった。ため息を供に、夜の庭園を歩く。暗闇のなかでなお恋の相手を呼ぶ蝉が、朱の気配に驚いたのか月影に飛び立った。
それをなんとはなしに追った先。
すっかり青葉に着替えた梅の木の、それでもふしぎと香るようなざわめきの奥。まるであのときと同じように、その光景はそこにあった。
長い黒髪が風に揺れる。まつ毛にふち取られた目がこちらを向く。そして一言、「ひさしいな」と声を発した。
およそ四か月ぶりの、乳揉み少年との再会であった。