あらためて華弥と対面したのは夜が明けてからのことだった。昨日の朝ちらっと顔を見たきりだから、まる一日互いを視界に入れずに過ごしていたということになる。やむを得ず長期の留守番を頼んだときをのぞけば、これがはじめてだった。
すでにまぶしい陽射しのなかで、華弥が赤く腫らした目をこちらに向ける。そして開口一番、言った。
「姉さん、わたしと勝負して」
「え、うん。え?」
朱は耳を疑った。
「なんて?」
というわけで、本日の講義は姉妹真剣勝負の儀と相成ったのである。
「いや、なんで?」
困惑する朱の視線の先で、運動着に着替えた叶舎が高らかに笑った。
「おーっほっほっほ! まんまとかかりましたわね、朱さん。もうあなたに逃げ場はなくってよ」
「だからどういうことなの」
青空のもと、広い体錬場に集まった運動着姿の妃嬪候補生たちが、華弥のうしろにつくようにして朱と向かいあっている。つまり四十七対一という構図で、こちらが明らかに孤立した状態だ。
なんだろう、集団いじめかな。
そう思ってちょっと悲しくなったときである。華弥が一歩まえに出た。
「わたしがみなさんにお願いしたの。こうでもしないと姉さんはうなずいてくれないと思ったから」
その目は真剣だ。
「もう一度言うわ、姉さん。わたしと勝負して」
うしろの四十六人もみな同じようにこちらを見ている。圧がすごい。
しかしそれはともかくとして、朱も本気で答えなくてはならなかった。彼女たち全員に協力を仰いでまで、華弥はしっかり決着をつけようとしてくれているのだ。
覚悟を決めるときが来た。
「わかった」
朱は一度深く息を吸って、ぐっと腹に力を入れた。
「勝負しよう、華弥。あたしたちのすべてをかけて」
華弥がうなずく。それから右手を高く掲げて、言った。
「ではここに」
その手に握られたものになんとなく見覚えがある。いやな予感は、華弥が続けた言葉によって現実となった。
「十七歳当時の姉さんが揺れる想いをつづった木簡があります」
「ちょっと待てーい」
やっぱりいじめだった。
「なんで!? なんであんた、そ、それ……!」
「見つからないように埋めたはずなのに?」
「そうだよ! なに見つけてんの!」
華弥が涼しげに笑う。
「わたしを見くびらないで、姉さん。収蔵品はこれだけじゃないのよ」
「そんな事実は知りたくなかった」
なんだこれは。どんな悪夢だ。
もはやそれどころではない朱をよそに、華弥はなおも凛とした声で続けた。
「さて、ここまで説明すればもうおわかりかと思いますが」
「なんにもわからん」
「この木簡をわたしから取り返すことができれば姉さんの勝ち。守りきればわたしの勝ちよ」
なるほど、それなら単純でわかりやすい。しかも朱に有利だ。やさしい華弥のことだから、もしかするとこちらに華を持たせようとしてくれているのかもしれない。
と、思ったのだが。
「ちなみにこちらには四十六人の味方がいます」
「うおおい! ずるいだろ、それは!」
不公平にもほどがある。
「いいえ、これが戦略というものよ、姉さん。勝敗は戦うまえに決しているの」
華弥が合図を出すと、妃嬪候補たちが一斉に動いた。半数が華弥を囲んで防壁をつくり、半数が鋭く光る目を朱に向ける。
狩られる。
「さあみなさん、姉さんをつかまえれば木簡はあなたがたのものですよ!」
「汚い取引をするんじゃない!」
「姉さんはがんばって逃げてね。わたしはここを動かないから、いつだって取り返しにきてくれてかまわないのよ。来られるものならね」
「あんたのそんな悪そうな声はじめて聞いたよ」
完全に守られて、華弥の顔はもう見えない。正面から突っ込むのは無理だ。一度逃げて策を練るしかない。だがどう逃げる。
朱はすこしでも考える時間を稼ごうと、おおげさにため息をついた。
「やれやれまったく。講義の時間にこんなことして、愛しの主上に叱られても知らないよ?」
すると華弥のうれしそうな声が答えた。
「大丈夫! これは主上のご提案だから!」
「あのやろうただじゃおかねえ!」
と同時に朱は地面を蹴った。
華弥の牙城に背を向けて走る。遅れていくつもの足音が聞こえる。全員ではない。おそらく半数は残ったまま、守りに徹するつもりだろう。
事前の打ち合わせも完璧か。
朱は体錬場を出て、学舎のまえを駆け抜けた。もうここで学ぶことも残りわずかだ。この数か月、とくにやる気も目標もなかったが、みんなと一緒に受ける講義はそれなりに楽しかった。
そんなことを思う間に足音がせまる。思ったよりもはやい。
それもそうだ。みんなまじめに体を鍛えてきたのだ。
もう朱がかばってやらなくても、彼女たちはきつい課題をこなせる。転んでも倒れても起き上がれる。流した汗のぶんだけ成長している。
学舎を過ぎて角を曲がる。その先は宿舎だ。
ずらりと並んだ部屋の、ひとつひとつに思い出がある。ときには部屋を交換したり、ひとつの部屋にぎゅうぎゅうに詰まって深夜まで盛り上がったりもした。それで典侍や女宮侍補たちにこっぴどく叱られたのはいつだったか。
だれかの指先が袖に触れた。ハッとして振り払う。
ぐんと加速した。たったこれだけで息が上がるのはなぜだろう。なにがそんなに苦しいのだろう。
宿舎を抜けるとしばらく渡り廊が続いて、それから庭園を挟んだ向こう側にひときわ立派な建物が見えてくる。
あれが主上の住まい。そしてその先に連なるのが、妃嬪の殿舎だ。
まだそこまでは行けない。禁じられている。
振り返る。追手がせまっている。再びまえを向く。青葉の梅園が、さわさわと声をたてた。
そのなかに飛び込んだ。
木漏れ陽を受けて走る。ほかの木にかしずかれるように立つ、枝垂れの一樹が姿をあらわす。通り過ぎるその瞬間、葉の茂った枝先が、朱の背中を押すようになでた。
足が軽くなる。
跳ねるように駆けていく。白壁が見える。行き止まりだ。朱は心のおもむくまま、目のまえの木に飛びついた。うしろのほうから、あっという声が聞こえた。かまわずのぼる。太い枝が白壁の上まで伸びていた。伝って、足を屋根にかけた。
雲の下に立った。
風が吹く。空が近い。はじめての景色が眼下に広がる。
主を待つ殿舎の数々、それらをつなぐ渡り廊、庭、きらめく池や東屋、波打つ木々、後宮のすべてが見える。遠くにたたずむ門の向こうの、さらに遠くの山々に見守られながら、同じ太陽の色に染まっている。
朱は思った。
あたし、ここに住むんだ。
考えるまでもなく、ただ自然と、そう思った。
「朱ねえさま!」
ずっと下のほうからあせったような声が聞こえる。見れば心配そうな顔が、朱ののぼってきた木の根もとに集まっていた。
「大丈夫」
朱は振り向いて、笑った。
「あたし、このまま行くね」
足を踏み出す。息がはずむ。目指すはただひとつ、華弥のところだ。
風に乗って走った。青い瓦は途切れることなく続き、朱をまっすぐにその場所へと導く。さえぎるものはなにもない。空だけがどこまでも広がっている。
雲を追い越して進んだ。
下を向いているひまはなかった。うしろを振り返る余裕もなかった。まえを見てはいるが、その先になにがあるのかわからなかった。
ただ、いまだけを感じて走った。
そうして陽の光をいっぱいに背負ったとき、朱は叫んだ。
「華弥!」
跳ぶ。
体が宙に浮く。
華弥を守っていた人垣が、蜘蛛の子を散らすように逃げていくのが見えた。
ただひとりで待つ華弥のまえに、降り立った。
「お待たせ」
「姉さん」
華弥の目が驚きに見開かれたのは一瞬だけだった。直後、その剣幕に気圧されたのは、朱のほうだった。
「なにを考えてるの!? 死んだらどうするのよ!」
「ええ……大丈夫だったじゃん……」
「それは結果としての話でしょう!? どれだけ危険なことしたかわからない!? なんでそんな簡単なことも考えられないのよ!」
なぜだか急にカチンときた。
「あーあーどーもすみませんでした! あたしは華弥とちがって馬鹿だから、そんな簡単なこともわかんないんですうー!」
今度は逆に押し返す。華弥も負けじと足を鳴らした。
「はあ!? そんなわけないでしょ、わたしの姉さん馬鹿にしないでよ!」
「あたしがその姉さんだよ!」
にらみあう。見れば見るほど腹が立ってくる。朱は低くうなるように上体を沈めて、華弥の目を覗きこんだ。
「だいたい、これはあんたがはじめたことだろうが。あんたが勝負だなんて言い出さなきゃ、あたしだってこんなことしなかったよ」
華弥が鼻を鳴らして笑う。
「あーら、姉さんったら負け惜しみ? そうよねえ、最初から怖気づいてたものねえ」
「まだ負けてませんけどおー?」
朱は言い返して、華弥がうしろ手に持つ木簡に手を伸ばした。
「返せ」
「やだ」
「返せ!」
「いーやー!」
華弥はちょこまかと逃げまわる。思ったより手ごわい。すでに激しい運動をしたあとで、朱の動きはいくらかにぶっていた。それがまたいらだちを募らせる。
荒々しく息を吐いた。
「もうっ! あんたいい加減に――」
そして力まかせに腕を引くと、こちらを向いた黄金色の目には涙が浮かんでいた。
「――華弥?」
「そんなに」
ゆるんだ朱の手を、華弥が振り払う。
「そんなに大事なら、どうしてあのときわたしを置いていかなかったのよっ!」
木簡が折れそうなほど強く、震える両手で握りしめた。いくつもの雫が落ちる。
朱は払われた手をおろして、正面から華弥に向きあった。
「置いていこうとしたよ」
自分でも驚くほど、静かで素直な声が出た。
「あんたを置いて、追いかけようとしたよ。あんたさえいなければって思ったこともあったよ。でもできなかった。選びきれなかった。いまでもまだ、ときどき思い出して、後悔する」
うつむく華弥の肩が、揺れた。
「ずっと迷ってる。なにが正しいかなんてわかんない。守里のことは、もう、むかしのことだと思ってはいるけど、でも、大事だから。あんたと同じくらい」
「……もうやめてよ。わたしのためみたいに言うの、やめてよ。姉さんそうやっていっつも、自分のほんとうの気持ちから逃げてるだけじゃない」
華弥が顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの、ひどい顔だった。
「わたし、そんな姉さんがだいっきらい」
朱はうなずいた。
「うん、あたしもきらい。そうやってなんでもわかったような口きいて、肝心なことは話してくれない華弥がきらい」
一歩まえに進む。同時に華弥の足が動く。
つま先が触れそうになったとき、どちらからともなく手を伸ばした。
「でも、大好き」
互いを強く、抱きしめた。
華弥の派手な泣き声が響いた。胸もとが濡れていくのを感じて、これはたいへんなことになっているだろうなと苦笑しながら、朱もほんのすこしだけ、泣いた。
結局勝負はうやむやになって、木簡もほかの収蔵品とやらも取り返すことはできなかった。だがとりあえずいまのところ、朱のやや恥ずかしい思い出はだれの目に触れることもなく、華弥によって大切にしまわれている。
だからあれは、姉妹だけの秘密だ。
屋根の上を駆けまわったことについてはいろんなひとに怒られたし、枝乃に「もうほんとうに勘弁してください」と泣きつかれたりもしたが、それでも朱はまだ妃嬪候補のままである。
もとどおりの忙しい毎日が過ぎて、夏が去り、秋が来た。
そしてついに、朱たちは、正式な入宮者発表の日を迎えたのである。