二、大后の座をかけて


(2)天下の媛君


 その媛君(ひめぎみ)はだれよりも華麗な衣服をまとい、髪や耳には金の飾りを、胸もとには(ぎょく)を連ねて他を睥睨(へいげい)するように立っていた。

 

 複雑なかたちに結い上げられた髪がどうなっているのか、(あき)にはさっぱりわからない。顔は白く塗らず、つややかな薄桃色の頬を見せつけているが、眉間には典侍(てんじ)と同じように赤い花文様をあしらっている。ただ、典侍のものよりもだいぶ派手だ。

 

 つり上がり気味の目と自信たっぷりに弧を描く真っ赤なくちびるからややきつい印象を受けるものの、それも含めてけっこうな美人といえた。もちろん華弥(はなび)には到底及ばないが。

 

枝乃(イノ)さん、あれが?」

「はい、摂政志聞(シモン)さまの末の媛君、叶舎媛(かなりやひめ)です」

 

 遠目から見ているのに、自然、声がおさえられる。

 

 摂政というのはとてもえらくて、まだ年若く経験の乏しい主上に代わって政治をするひとだとさっき教えてもらった。主上も好き勝手できるわけではないらしい。高貴なひとびとの世界は複雑だ。

 

妃嬪(ひひん)候補の選定や評価に身分は関係ありませんが、まあとにかくいまをときめく権力者の娘ですからね。へたに近づけばなにをされるかわかりません。ここはひとつ慎重に――」

 

 と、枝乃が言うさなかである。

 

 華弥が動いた。ざわざわと落ち着かない候補生たちのあいだを縫うように、ためらうことなく叶舎(かなりや)のもとへ向かっていく。

 

「華弥さんんん」

 

 枝乃が身もだえした。パクパクと開閉する口が音もなくなにかを訴える。

 

 そうこうするうちに、華弥はもう叶舎に声をかけていた。

 

「あなたは?」

 

 という声がはっきりと聞こえてくる。それが叶舎のものであることは明白だった。いかにも高飛車という感じだがふしぎといやみはなく、むしろかわいらしいとさえ思える響きだ。

 

 朱は直感した。たぶん、悪い子ではない。

 

 華弥もきっとそう感じたから彼女に近づいたのだろう。朱は枝乃をなだめすかしながら、妹にならって叶舎にあいさつをするため歩き出した。

 

(ろく)(さと)から来ました、華弥と申します。よろしくお願いします」

「ふうん、ど田舎ね。わたくしは叶舎ですわ。よろしくお願いしますね、華弥さん。あなたおいくつ?」

「十五です。叶舎さんは?」

「十七よ」

 

 聞こえる会話に不穏な空気はまったくない。もう友達ができたとは、さすがは華弥だ。姉として鼻が高い。

 

 朱もそこに加わろうと口を開いた。そのときだった。

 

「おやおや」

 

 男の声がした。叶舎のうしろからだ。

 

 朱に半歩遅れて並ぶ枝乃の肩が揺れた。眉間に深くしわを寄せ、正面をにらみつける。するとその視線の先に、にやついた顔がひとつだけ現れた。

 

「またお会いできるとは思いませんでしたよ、枝乃侍補(じほ)。てっきりもう郷にお帰りになったのかと」

 

 それを受けて枝乃が朱のまえに出る。

 

「あらまあ、どなたかと思えば百安(トアン)侍補ではありませんか、ごきげんよう。あいにくずっと先まで仕事が山積みですのでねえ。あなたとちがって」

 

 今度は百安という女宮侍補のほうが眉をひそめた。

 

「これは妙なことをおっしゃる。この顔がひまを持てあましているように見えるとでも?」

「さあ? あたくしそんなにあなたのお顔に興味ございませんので」

 

 至近距離でにらみあう。

 

 華弥と叶舎はすっかり場を奪われ、きょとんとしていた。これでいいのか女宮侍補、と朱は思ったが、そんな顔の華弥もかわいいのでとりあえずそのままにしておく。

 

 言い争いはさらに盛り上がった。

 

「このわたしがひまなわけがないでしょう? 枝乃侍補、こちらにいらっしゃる媛君がどなたなのか、まさか知らないわけではありませんよね?」

「もちろん存じ上げておりますが、だからなんだというのです。妃嬪候補の娘さんなら、あたくしだってお連れしております」

「ほ! まったくお話になりませんね! よろしいですか枝乃侍補。いずれ大后(おおきさき)となられるのは、我が叶舎媛です」

「うちの華弥さんだってすばらしい方ですよ」

 

 朱は枝乃を見直した。なんだ、よくわかっているではないか。

 

「ほほ! ま、せいぜいいまのうちに甘い夢を見ておくことですね。近いうちにかならず、大后の座は叶舎媛のものになります」

「わかりませんよ」

「わかります!」

「わかりません!」

 

 そんな不毛なやり取りが永遠に続くかと思われた。しかし百安が「摂政さまの媛君ですよ」と声高に言ったとき、ついに叶舎が動いた。

 

「そこまでです、百安どの」

 

 二人のあいだに割って入る。

 

「たしかに未来の大后はわたくしと決まったようなものですが、それはわたくし自身の力で得る位です。父は関係ありませんわ」

 

 さらに自信満々の笑顔で重ねた。

 

「まあほぼ確実にわたくしが大后ですけれど」

 

 見事なものである。

 

 叱られた百安はすごすごと退()がっていき、叶舎の背後に隠れた。一方、枝乃はまだ余憤(よふん)さめやらぬといった様子で荒い鼻息をたてている。朱はそれに苦笑しながらも、内心、けっこううれしかった。

 

「叶舎さんは、大后になりたいんですね」

 

 華弥があらためて叶舎と目をあわせる。

 

「当然ですわ。あなたも同じでしょう、華弥さん?」

「はい。わたし、負けません」

「よろしくてよ。受けて立ちます」

 

 ふたつのつぼみがほころぶように笑った。

 

「いい……」

 

 朱は思わずつぶやいてしまった。なんだこれは。いい。なんと表現すべきなのかわからないが、とりあえずすごくいい。

 

 もしかして、後宮にいればこれからもこういう光景を目にすることができるのだろうか。それは控えめに言って、最高だった。

 

「あたしも二人のこと全力で応援するよ……」

 

 燃えるように熱い胸を押さえながら宣言すれば、「いやあなたはまずご自分の応援をなさいよ」と枝乃につつかれた。忘れられていたわけではなかったらしい。

 

「あら、あなたは?」

 

 こちらに気づいた叶舎が振り向く。朱はたぎる思いを抱えたまま、つとめて自然な笑顔をつくった。

 

「あたしは朱、華弥の姉だよ。よろしくね、叶舎さん」

「まあ、めずらしい。ご姉妹そろって赤い髪ですのね」

 

 叶舎が目を見開いた。

 

「ああ、あたしのは華弥とちがってきれいな色じゃないけどね」

「そんなことありませんわ。とてもすてきよ」

 

 やっぱりいい子だ。

 

「でもたしかに、印象は異なりますわね。姉妹といわれなければわからないかも」

 

 と、叶舎が背伸びをして朱の顎先(あごさき)に近づいたときである。

 

 重く尾を引く音が響いた。見ればいつの間にか典侍が立っていて、手に()げた金属製の円盤を(ばち)で叩いている。だいたい四、五十人ほどの妃嬪候補たちが一斉に動きを止め、静まりかえった。

 

「みなさん、おそろいですね」

 

 典侍の声に、枝乃たち女宮侍補が頭を下げる。

 

「それではこれより、初日の試験をはじめます。なお、この銅鑼(どら)が毎回の試験開始と終了の合図となりますので、覚えておくように」

 

 そう言ってもう一度鳴らす。空気が候補生たちの緊張で急激に冷えた。とくに意気込みのない朱でさえ、肌が粟立(あわだ)つのを感じたほどだ。

 

 それを察してか、典侍がわずかに声をやわらげる。

 

「と、申しましても、本日は顔合わせだけです。ほかの候補生のみなさんと楽しく親睦を深めてください。そのために歓迎の意味も込めて、主上がとくべつの温泉をご解放くださいました」

 

 わっと歓声があがった。

 

「本来は原則として主上と大后さまだけがお使いになる、神聖な湯殿(ゆどの)です。古くは神々も傷や病を癒されたという湯を、ありがたく頂戴なさいませ」

 

 典侍が言い終えるころにはもう、候補生たちはすっかり浮き立っていた。湯が使えるというだけでもありがたいのに、温泉となれば格別だ。朱ももちろん例にもれず、そわそわと典侍の案内にしたがった。

 

 が。

 

「こちらでございます」

 

 典侍が指し示したものに、みな唖然(あぜん)とした。

 

 露天の洗い場には、堆積し黒ずんだ落ち葉。そして好き勝手に生い茂る雑草。湯気が出ているからたしかにそこに温泉はあるのだろうが、汚れた泥に埋もれて見る影もない。

 

 楽しい想像は、一気に崩れ落ちた。

 

「きれいに掃除したらあとは好きに使っていただいてかまいません。これだけの人数がいれば、そう時間はかからないでしょう」

 

 並んだ顔がさっと青ざめるのがわかった。典侍の容赦のない声は続く。

 

「では、どうぞ」

 

 そこかしこから悲鳴があがった。

 

 壁のごとく立ちふさがる羽虫の大群が、せせら笑うように朱の鼻先をかすめた。