二、大后の座をかけて


(1)後宮というところ


(あき)さん、華弥(はなび)さん、おはようございます」

 

 上機嫌な声が部屋に響いた。枝乃(イノ)だ。もはや聞きなじんだ声だが、こんなに甘くうれしそうなのははじめてだった。

 

「あらまあ、はしたない。ご着衣が乱れておりますよ。さ、ちゃんと整えて、お(ぐし)もきれいにして、今日も張りきってまいりましょうね」

 

 ちょっと気持ち悪い。

 

「おはよう、枝乃さん。あんた朝から元気だねえ」

 

 朱はまだ船をこいでいる華弥の髪を()いてやりながら、こっそりため息をついた。

 

 昨夜はけっきょく、よく眠れなかった。思い返せばふつうに腹が立つし、まったく反撃できなかったのがくやしい。なによりあの少年は何者だったのかということがいまさら気になって、どうにも落ち着かなかった。

 

 あのえらそうな態度。まさか、とは思うが。

 

「後宮の朝は早いですから。あなたがたにも慣れていただかなくてはなりませんよ」

 

 枝乃がひとつ咳払いをする。

 

「正式に入内(じゅだい)ということになれば、(たまわ)るのは妃嬪(ひひん)の位だけではありません。大事なお仕事も山ほどございます。それを(おこた)らず、(おご)らず、もっともすぐれた働きをした方だけが、最終的に大后(おおきさき)として主上のおとなりに座れるのです。ただ着飾っていればいいというわけではないのですよ。ま、それもお仕事のうちではありますけれど」

「へえ、最初から大后さまになれるってわけじゃないんだ?」

 

 朱は好奇心に目を開いた。こういうことはいままで知る機会すらなかったから、聞けば単純におもしろい。

 

「ですから、あなたがたは妃嬪(・・)候補なのです。妃嬪というのは、天子さまの第二、第三の夫人のこと。つまり候補の期間を経て妃嬪となって、さらにそこから大后として選ばれてはじめて、主上の正式な配偶者となれるのです」

「たいへんじゃないか」

「たいへんですよ。典侍(てんじ)さまもおっしゃっていたでしょう、この後宮は実力主義だと」

 

 枝乃が表情を引きしめる。

 

「賜る位に出自は関係しません。妃嬪候補時代の評定がすべてです。しかし、場合によっては昇格も降格もあり得ます。大后は妃嬪の第一位である()から選ばれるのが慣例ですから、みなさんまずはそのわずかな定員におさまろうと必死になるでしょうね」

「ちなみに定員は?」

「二名です」

「はあー」

 

 なんとなく察してはいたが、やはり庶民の結婚とはだいぶちがう。まず嫁ぐのに受験が必要というのがふしぎだ。それに合格しても正妻になれるかはわからないというのだから、まったく難しいものである。

 

 この方法で結ばれたとして、本人たちはしあわせなのだろうか。

 

 朱は華弥の顔を盗み見た。いつしか眠気は飛んだと見えて、なにやら真剣に思案している。

 

 せっかくならいちばんいい位について、豊かで不自由のない生活をしてほしいとは思う。だが、はたしてそれがほんとうに華弥にとって最善といえるのか。

 

 華弥はなぜ、この道を選ぼうと思ったのだろう。

 

「狭き門ではありますが、あなたがたにだってじゅうぶん可能性はございます。わからないことがあればなんでもお聞きください。そのために、あたくしたち女宮侍補(にょきゅうじほ)がいるのです」

 

 枝乃が胸を張った。

 

「そういえばさ、主上のお妃候補なのに、ほかの男と一緒にいていいのかね?」

 

 朱が首をひねれば、枝乃はかすかに声を出して笑った。なんてことはないというふうに言う。

 

「ご心配なく。あたくしたち、女体には興味がございませんから」

「……ないの?」

「ええ、それが女宮侍補というものです」

 

 うなずいて、続けた。

 

「後宮は、基本的に主上以外の男性の出入りが制限されています。とはいえまったくないわけではありませんし、侵入者がないともかぎりませんから、万が一にもあやまちが起きないように見張る者が必要です。それが女官ばかりでは心もとないということで、そういった男を集めて補佐させたのが女宮侍補のはじまりだといわれています」

 

 朱は遠慮がちに手をあげた。

 

「あの、聞いてもいいかい?」

「どうぞ」

「それ、どうやってたしかめるの。その、そういうひとだって」

 

 枝乃が答える。

 

「そりゃあ、女体に反応しないということを証明するんですよ。実地で」

 

 実地で。ということはつまり、そういうことだろうか。

 

「……いやじゃない?」

「もちろんいやがるひともいるでしょうが、あたくしは気になりませんでしたね。それよりもこれで出世の道がひらけるという喜びのほうが大きかったです」

「そういうもんかね」

「あくまでもあたくしは、ですよ。妃嬪候補のみなさんがいろいろな目標や思惑を持って後宮の門をくぐられるように、女宮侍補にもいろいろな者がおります。仕官を志すに至った事情もさることながら、単純に女体に興味がない者、男を愛する者、なにに対しても性愛の欲を持たぬ者――心の持ちようもさまざまです。それらをすべてありのまま受け入れてくれるのですから、あたくしはいいと思いますよ。海を渡った向こうの大国では、後宮で働く男の機能を強制的に奪ってしまうとも聞きますし」

 

 思わず声が出た。ほんとうに知らないことばかりなのだ。

 

 朱はいったん考えるのをやめて、もっとたくさんのことをよく知ろうと思った。そうしなければたぶん、華弥にとってなにがいいのか、そのためになにができるのか、判断することは難しい。まあいずれは追い出されるだろうが、せめてそれまでは妹に寄り添っていたいのだ。

 

 願う朱の指のあいだを、華弥の髪がさらりと抜けていった。

 

「さあさ、もうそろそろお時間ですよ。今日は妃嬪候補のみなさんの顔合わせがおこなわれます」

 

 枝乃が手を叩いた。それまでずっと考え込んでいた華弥が、はっとしたように顔を上げる。

 

「競争相手とはいえこれからともに過ごすことになる仲間です。そのあたりのことも頭に置いて、しっかりご自分を売り込んでくださいませね」

 

 気合いじゅうぶんといった様子の枝乃に対して、華弥はかわいらしく小首をかしげた。

 

「あの、枝乃さま」

「はい、なんでしょう華弥さん」

 

 そのまま無邪気に言う。

 

「妃の位につくには、具体的にどうすればいいでしょうか」

 

 朱は思った。なるほどそういう感じか。

 

「まあまあ! やる気満々ですね華弥さん、たいへんよろしいですよ」

 

 枝乃がまたうれしそうに手を叩く。朱もうれしかった。華弥がそのつもりならば話は早い。全力でそれを応援するまでである。

 

「そうですねえ、まず今日のところは目立ちすぎず、埋もれすぎず、まんべんなくみなさんとお話しをして様子を見るのがよろしいかと思います。あなたがたと同じように地方から出てこられた方ばかりですから、そう身構える必要もございませんよ」

 

 枝乃の言葉に華弥は素直にうなずき、笑みを見せた。

 

「よかった。それならみなさんと仲よくなれそうです」

「あなた大物ですね」

 

 枝乃がうなる。朱としては「やっと気づいたか」という気分である。

 

 ともかくこれで方向性は定まった。朱はいくらかすっきりした心持ちで、顔合わせに向けて肩慣らしでもしようかと考えはじめた。ところが。

 

「ああ、でも」

 

 そのとき、枝乃がふいに眉をくもらせた。細い目をさらに細めて、低い声で言う。

 

「おひとりだけ、気をつけたほうがいい方がいらっしゃいます」