目を覚ますとそこに父がいた。だからこれは夢なのだと、すぐにわかった。
『あれ、起こしちゃったか。まだ夜明けまえだ、もうすこし寝ていてもいいんだぞ』
『ううん、起きる! 父さん疲れてるでしょ、あたし朝ごはん獲ってくるよ!』
そう答えた自身の声はまだ幼い。大きく伸びをした腕や手も、ちいさくて細かった。
『おかえり、父さん』
『ただいま、朱』
ほほ笑む父の顔には、薄くもやがかかっている。忘れたいわけではないのに、九年も会わずにいるとさまざまなことに押し流されてしまうらしい。ただ、やさしくておだやかで、どこか冴えないそのぬくもりを、朱は覚えている。
『都はどうだった?』
『あいかわらずにぎやかだったよ。きれいなものもいっぱい売っていてなあ。まあ買えないけど……朱にも見せてやりたいなあ』
頭をなでる手はかわいていて、すこしくすぐったい。
『そうだ、つぎの貢納のときには、朱も一緒に行くか』
その言葉に朱は飛び跳ねた。
『いいの!? 行きたい!』
『朱も八つになったからもう一人前だ。郷司さまにお願いしてみよう』
父がうれしそうに言うのが、朱にもうれしかった。
そうか。ではこれは、あの日の朝か。
いま思えば父はちょっと変わったひとで、だれもがいやがる都への納税の旅に、なぜか率先して参加するのが常だった。毎年、必ず、食料や旅費の自己負担をものともせず、目を輝かせて立候補するのだ。
だから幼いころの朱には、年に一度、父の帰りをひとりで待つ時期があった。といっても、となり近所のひとたちがなにかと世話を焼いてくれたから困ったことはない。それでもやっぱり、父が帰宅した日には小躍りしたものである。
そう、だから――覚えている。この日のことも。よく、覚えている。
『待ってて、とびっきり豪華な朝ごはんにするから』
『ひとりじゃ危ない。父さんも行くよ』
『大丈夫、もう一人前だもん!』
そうして家を飛び出した朱の目のはしに、うっすらと夜明けの光が射した。
清々しい朝だった。
青い山のすそを、目覚めたばかりの太陽が洗っていく。だいぶ涼しくなった風が、わずかばかりの水気をしたがえて朱の髪を揺らした。昨日の雨のなごりだろうか。そんなにおいがする。
水たまりを踏みながら駆けていけば、赤い蜻蛉が競うように追いかけてきた。あとからやってきたつがいは一本につながったまま、腹の先を水面に打ちつける。波紋とともに光が広がり、産み出された卵を歓迎しているようだった。
彼らは朱のきょうだいだ。朱が生まれたとき、それは見事な赤い蜻蛉が、待ち受けていたように朱の額に舞い降りたという。
だから、「あき」。
父から何度も聞いたその話はおもしろくて、なんだかとくべつな感じもしたが、じつは単純に「秋生まれだから」なんじゃないかなとも思う。でも、この名前は好きだし、蜻蛉も好きだし、秋も好きだ。だからどんな理由でも、朱にはうれしかった。
だんだんはっきりとしてきた山の稜線を見上げる。あれがぜんぶ色づくのは、もうすこし先のことだろうか。
そのときが待ち遠しかった。山の神がすっかり衣を着替えたら、郷は祭りと恋の季節だ。今年はどんなお嫁さんがやってくるのだろう。
でも、と、朱は思った。
ふと足を止めて、山の向こうの空を見る。
今年は戦が激しかった。あの山を越えた先、未開の地には、主上にまつろわぬ東夷たちが住んでいる。長く反抗を続ける彼らとのあいだに、最近、大きな戦があった。
ここ六ノ郷は都から遠く離れたど田舎で、東のいちばんはじっこで、それゆえに東夷とかかわらずにはいられない。
大勢駆り出された。死んだひともいる。そんなところに、よそからきれいなお嫁さんがやってきてくれるだろうか。
うつむいた顔の横を、蜻蛉がからかうようにかすめていった。
翅に朝陽が透けている。朱はちょっと軽くなった心で、それを追おうとした。そのときだった。
ひとの声がした。
言葉にならない、叫びのような、けれどかすかな声だ。
そう思ったときにはもう駆け出していた。一直線に声のしたほうを目指す。するとまた、聞こえた。
朱はそれで完全に場所を把握し、同時に唾をのんだ。
あのあたりはよく野犬が出る。もう何人も食い殺されている。
悲惨な光景が勝手に頭のなかに描かれて、身震いした。だがもしそうなっているのならなおのこと、なんとかしてやらねばなるまい。足を止めず、むしろどんどん加速させて、朱はそこへ向かった。
果たして朱のまえに現れたのは、痩せた野犬の群れだった。
五匹。そのそろった鼻先に人影が見える。ひどい怪我をしているようだが、かろうじて自分の足で立っている。肩で息をしている。
生きている。
それを見て取った瞬間、朱は高く吠えた。
まあでたらめである。正しい対処法など知らない。ただこれだけは知っている。
なめられたら、負けだ。
野犬たちが一斉に振り向いた。鼻にしわを寄せ、歯をむき出しにしてうなり声をあげる。完全にやる気だ、と思った。ここで怖気づいたら人生がおわる。
朱はぐっと眉間に力をこめて野犬をにらみつけた。一匹一匹、しっかりと目をあわせ、こちらが上であることを見せつける。
ひときわ大きな一匹が吠えた。それを合図に群れが動く。朱のほうへ向かってくる。朱は思いきり息を吸い込んで、
『うるさい! こっちだって腹が減ってんだ!』
怒鳴った。ダン、と強く踏み出した足に野犬たちがひるむ。続いて相手より低く鋭くうなれば、野犬たちは尻尾を巻いてそわそわと足踏みをはじめた。
『去ね。さもなくば朝ごはんにするぞ』
骨と皮ばかりに見えるが、まあ、五匹もいればいくらかの足しにはなるだろう。肉だ、肉。貴重な肉だ。
知らず垂れたよだれが、口のはしを濡らした。しかしそれが顎まで伝うまえに、野犬たちはそそくさと逃げていってしまった。
『あ、肉……』
腹の虫がむなしく鳴った。
と、その末尾にもうひとつ音が重なった。そのほうを見れば、野犬に襲われていたひとが地面に座り込んでいた。
『そうだった!』
そもそも目的は肉ではなかったのだ。朱はあわててそのひとに駆け寄り、ひざをついた。
『大丈夫?』
顔をのぞきこむ。
少年だった。朱より五つほどは年長だろうか、十二、三歳くらいに見える。その少年の左半面が、血で濡れていた。
『すごい血だよ! 立てる? とりあえずうち行こう? えっと、なにもないボロ屋ですがなんと今日は父さんがいます』
動揺したせいでへんなことを言ってしまった。その意味が伝わったのかどうなのか、少年はゆっくりと顔を上げて朱を見た。
そして、血走った目で朱を押し倒した。
『ち』
『……ち?』
『血。おまえ、どれだけ殺した。かみ、真っ赤』
絞り出すように低く言い、朱の胸もとをつかむ。朱は「ああ」と納得して、首を横に振った。
『ちがう、ちがう。あたしのこれは、生まれつき。もともとこういう色なの』
ひと房つまんで差し出すと、少年はすごい勢いでそれをはねのけ、飛び退った。
『寄るな。おれも殺すか』
『だからちがうっつーの。ひとの話を聞け』
朱はため息をついた。よく見れば、少年の体はそこらじゅう血がにじんでいて服もぼろぼろだ。きっとよほどこわい目にあったのだろう。なら、混乱していてもしかたがない。
『あたし、朱。あんた名前は?』
少年は答えなかった。代わりに、父が朱を呼ぶ声が聞こえた。
結局、少年はそのあと気を失って、父の手で家まで運ばれた。一時は生死のさかいをさまよい、目を覚ましてからもなかなか打ち解けてくれなかったから、彼の名を知ったのはずっとあとのことだ。
そのときのことも覚えている。
『守里』
その名前を、はじめて見せてくれた笑顔を、覚えている。