一、後宮へ


(4)月下の紅梅


 湯をもらって用意された部屋に入ったとき、すでに華弥(はなび)は半分夢のなかだった。

 

「ほら華弥、寝るんならちゃんと寝なよ」

 

 (あき)の腕にもたれかかり、ほとんど目をつぶったままよたよたと歩く華弥に声をかける。さすがに疲れが出たらしい。「んん」とうめいたきりなんの反応も示さなくなった華弥を、朱は倒れないように支えた。

 

「しょうがないねえ」

 

 そのまま抱き上げる。

 

 部屋のなかは見たことのない調度品ばかりだが、おそらく窓ぎわに置いてある大きな台が寝床だろう。朱はそこに華弥を寝かせると、つるりとした手触りの布をかけてやった。

 

「ねえさん」

「ん?」

 

 華弥がもぞもぞと、甘えるように両腕を伸ばしてくる。されるがまま上体を寄せれば、ふにゃりと頬をゆるませた。

 

「だいすき」

 

 あとはもう寝息しか聞こえない。

 

 朱はふっと息をもらした。まったく、これだからこの妹は放っておけないのだ。

 

「あたしもだよ。おやすみ、華弥」

 

 じんわり広がるぬくもりを噛みしめながら、朱は自分の(ひたい)で華弥の額に軽く触れた。それからそっと寝床を離れて、窓の外を見る。冴えわたる月明かりに、ひとひら、(あか)い花弁が舞った。

 

 ふいに、だれかの呼ぶ声が聞こえた気がした。

 

 外に出る。風が抜けて、髪を揺らす。足もとには、さきほどの花びら。

 

 なんとはなしにその香りを追って、歩き出した。

 

 白壁が(あわ)く光り、朱塗りの柱は静かに影を落とす。宮城は夜の闇のなかでも威容を誇り、瓦屋根を青々と輝かせていた。

 

 こんなところにずっと住むことになるのだ、華弥は。

 

 考えたこともなかった。もちろん、いつかはいい相手のもとに嫁いで、しあわせになってくれたらと願っていた。けれどまさか、その相手が主上だとは。

 

 なりゆきでともにここまで来たものの、朱自身は妃嬪(ひひん)として残れるとは思っていない。どうやらいくつもの試験に合格しなければならないようだし、そもそもはじめからそんなつもりなど毛頭ないのだ。そのうちすぐに追い出されるだろう。

 

 ただ、できることなら妹の晴れの舞台は見届けたい。

 

「でも、ちょっとさびしいなあ」

 

 月影につぶやく。

 

 帰ったらもう、ひとりだ。

 

 しかし貧しい我が家に、華弥が戻ってくれたらとも思えなかった。二人身を寄せあい、同じ(むしろ)にくるまって寒さに耐えながら眠るより、あの立派な寝床でひとりゆったりと夢を見るほうが絶対にいい。ほとんど納税のためだけに田畑を世話したり、紙を()いたりする毎日は、朱にはいいが華弥にはつまらないだろう。あんなに難しいことを考えて、しっかり発言もできるのだ。華弥にはきっとこういうところで生きるほうが合っている。

 

「なんだか、あんたがずっと遠くに行っちゃうような気がするね、華弥」

 

 ひとりごとは、夜のしじまに溶けた。

 

 直後、風が吹いた。冷気をはらんだ激しい風が朱の目を叩く。

 

 とっさにまぶたを閉じた。やにわに辺りを包む、むせかえるような芳香。誘われるようにそろりと目を開ければ、そこにあったのは見わたすかぎりの梅園だった。

 

 知らず、息をのんだ。

 

 咲き誇るのはすべて紅梅で、月明かりの下、天まで燃え立つようにも見える。寒さのせいではなく、体が震えた。

 

 ゆっくりと足を踏み出す。風の名残(なご)りがさざ波を立てる。どこかふわふわとおぼつかない感覚に、胸が鳴った。

 

 かくして朱は、そのひとを見つけたのである。

 

 梅園の奥深く、ほかの木にかしずかれるように咲く、ひときわ立派な枝垂(しだ)れの一樹(いちじゅ)。その太い幹にもたれてたたずむそのひとは、透きとおるような白い横顔に月光を浴び、腰までまっすぐに伸びるつややかな黒髪を風にもてあそばせていた。

 

 年のころは華弥と同じくらいだろうか。揺れる枝のあいだから、静かな眼差しがこちらへと流れる。長いまつ毛が静寂をはじき、朱の瞳と線を結んだ。

 

 その瞬間。

 

 朱は思わず、

 

「すごい(くま)だな」

 

 と、率直な感想をもらしてしまったのである。

 

 梅花に負けぬほど秀麗な顔がくしゃりと歪んだ。次いで発せられた「わかるか」という声で、朱ははじめて相手が男であることを知った。よく見れば、朱には及ばないものの上背(うわぜい)もそれなりにありそうだ。

 

「この疲労がわかるか。わかるだろう。わからぬはずがないのだ。こんなに、こんなにも見た目からして疲れきっておるというのに、なぜあやつらは気遣う素振りすら見せぬのだ」

 

 男、というよりは少年だが、そのつま先が力強く蹴り出される。一歩ずつ地団駄(じだんだ)を踏むようにしてあっという間に朱の手前までやってくると、声を張り上げた。

 

「寝たい!」

 

 続けざまにもう一言。

 

「やさしくされたい!」

「お、おう」

 

 朱としては「いや、なんなんだ」という感じだが、まあとにかくたいへんな思いをしているらしいというのは伝わってきた。

 

「若いのに苦労してるんだねえ」

 

 こういうときは愛想笑いしておくにかぎる。

 

 すると少年は急に押し黙り、じっと()わった目を向けてきた。はじめは朱の顔に。それから、大きく張り出した胸に。

 

 長い沈黙を破ったのは、少年のぼそりと生気のない声だった。

 

「……そなた、よい乳をしておるな」

 

 一瞬のできごとであった。

 

 気配が動いた。と思ったら、すでにわしづかみにされていた。

 

 なんということだ。故郷の屈強な自警団連中ならばいざ知らず、このような子どもに先手をとられるとは一生の不覚。これまでの朱の人生に一度たりとてなかったことである。

 

「はああー、やわい。よいな、そなた。よいぞ。よい」

 

 対して少年は存分に朱の乳を味わい、よほどご満悦と見える。ちなみに先の発言は谷間に顔をうずめ、揉みしだきながらのものである。

 

 朱は長らくそれを眺めるうちに「まあ、いいか」と思えてきた。なんというか、それ以外のところに感情の持っていきようがなかった。できることならこの少年にはいますぐ睡眠をとってもらいたい。

 

 ややあって手を止めた少年は、大きく息を吸い込むと同じぶんだけ吐き出した。いったんすべての動きを止めたあと、やたらと冷静な態度ですっと離れていく。

 

 あらためて彼が見せた顔面には、表情といえるものがなかった。

 

「癒された。礼を言う」

 

 くるりと背を向ける。

 

「今宵は冷える。風邪をひかぬようにな」

 

 言いながら、もう歩き出していた。

 

 呆然とする朱をよそに、その姿はなにごともなかったかのように最初の美しさを(たた)え、梅園の向こうへと消えた。

 

 にわかに湧いた雲が月を隠す。あとにはもとどおりの静けさと、紅梅の香りだけが残された。