「華弥!」
大切なその名を呼ぶ。晴天のもと、朝焼け色の髪が輝きながらさらりと揺れた。
「姉さん」
振り向いたのは、よく知ったかわいい笑顔だ。朱はすこしほっとしながら、そのそばまで駆け寄った。そこで気づく。
「華弥、お化粧してるの?」
「あ、うん。叶舎さんにね、ちょっと、お願いしたの」
よく見れば、頬とくちびるに薄く紅がさしてあった。
いつ、やってもらったのだろう。今朝は寝坊したせいで慌ただしかったし、講義中も離れていたからわからなかった。日程を終えてようやく、こうして顔をあわせることができたのだ。
「へんかな?」
「ううん、そんなことない」
けれど、なにかが引っかかる。
朱はハッとして手を伸ばした。華弥の頬を両手で包むようにしてのぞき込む。普段とはちがう、かさついた感触がした。
「華弥、あんた具合が悪いんじゃないのかい」
すると華弥は、ばつが悪そうに笑った。
「ちょっとね、風邪をひいちゃったみたい。でも大丈夫、たいしたことはないの。ただ、なかなかすっきり治らなくて、姉さんに心配かけたくなくて、うつしちゃ悪いし……その……」
だから朱を避けていたのか。
「馬鹿だね」
そっと引き寄せて、抱きしめた。慣れない化粧も、たぶん、顔色を隠すためのものなのだろう。
「あたしがだれよりも丈夫なの、知ってるだろ?」
「……うん」
「気づいてあげられなくて、ごめんね」
「ううん。わたしこそ、ごめん。ごめんね、姉さん」
抱きしめ返してくれる腕が、愛おしかった。
「でもよかった。じつはほんのちょっとだけ不安だったんだ。もしかして、あんたに嫌われちゃったんじゃないかって」
「そんなわけない!」
ため息交じりにこぼした本音を、さえぎったのは華弥の強い声だった。朱の胸に寄せていた顔を上げ、まっすぐに見つめてくる。
「そんなこと、あるわけがないじゃない。わたし、姉さんが大好きだもの。だれよりも大好きだもの」
黄金色の目がうるんできらめく。
「だからね、ちょっと、嫉妬したの。姉さん、人気者だから。みんな姉さんが大好きだから。それはもちろん、うれしいし、あたりまえのことだと思うけど、でも」
再び朱の胸に顔をうずめる。華奢な腕が、ぎゅっと背中をしめつけた。
「わたしの姉さんだもの。姉さんの妹はわたしだけだもの」
くぐもった声は、いつになく子どもっぽかった。
「華弥……」
こんなしあわせを感じることが、ほかにあるだろうか。
朱もいっそう強く華弥を抱きしめた。このぬくもりを手放したくなかった。
「うん、そうだよ。あたしの妹は華弥だけ。あたしは華弥のお姉ちゃん」
その事実を、噛みしめた。
「だけどね、ほかの子たちも大事。このままずっと一緒にいたいなって思う。だからお姉ちゃん、これからもみんなで仲よく楽しく暮らせるように、自分にできることをやっていこうって決めたんだ」
朝焼け色の髪を撫でる。ゆるゆると腕の力を抜いた華弥が、慎重に顔を上げた。その目を見つめて、言う。
「あたしもがんばるよ、華弥。だって、みんなあんたの家族になるんだもん。あんたが大后としてまとめる、家族になるんだもん。でもあんたのお姉ちゃんはあたしだけだから、なにかあったら、いちばんに頼ってほしいなあ」
瞳に映り込んだ夏空が、まぶしかった。
「一緒にいようね。これから先もずっと。大好きだよ、華弥。だれよりも愛してる」
その雫が、華弥の目尻からこぼれて、頬を伝った。
「わたし、わたしね」
震える声がする。
「後悔してたの。姉さんを無理やり連れてきちゃった。姉さんの人生を無理やり変えちゃった。でも姉さんにしあわせになってほしかったの。いつもわたしのことばっかり考えてくれて、自分のことは二の次で、結婚だって、わたしがいなければいつだってできたのに!」
胸が、高く跳ねた。
ちがう。そうじゃない。華弥はなにも悪くない。
あれは自分で選んだことで、いまだって自分で選んだからここにいるわけで、華弥が責任を感じることなんてなにひとつない。
華弥と一緒にいたいのだ。華弥のそばにいることが朱のしあわせなのだ。もうとっくに、ずっとまえから、朱はしあわせだったのだ。
そう、思うのに。
どんなにがんばっても、口はうまく、動かなかった。
「姉さん、お願い。ほんとうのことを教えて」
華弥がすがるように朱の腕を掴む。息を吸い込む。
朱は咄嗟に体を引こうとした。だが華弥がそれを許さない。
くもりのない瞳が迫る。まっすぐに朱を刺す。
だめだ。やめて。頼むから。
それ以上は言わないで。
「姉さん。ほんとうは守里兄さんのこと――」
「馬鹿だねえ」
すんでのところで華弥の言葉をさえぎって、朱は笑った。
「とっくに忘れたよ、そんなこと」