三、朱の目指すところ


(4)姉妹


華弥(はなび)!」

 

 大切なその名を呼ぶ。晴天のもと、朝焼け色の髪が輝きながらさらりと揺れた。

 

「姉さん」

 

 振り向いたのは、よく知ったかわいい笑顔だ。(あき)はすこしほっとしながら、そのそばまで駆け寄った。そこで気づく。

 

「華弥、お化粧してるの?」

「あ、うん。叶舎(かなりや)さんにね、ちょっと、お願いしたの」

 

 よく見れば、頬とくちびるに薄く紅がさしてあった。

 

 いつ、やってもらったのだろう。今朝は寝坊したせいで慌ただしかったし、講義中も離れていたからわからなかった。日程を終えてようやく、こうして顔をあわせることができたのだ。

 

「へんかな?」

「ううん、そんなことない」

 

 けれど、なにかが引っかかる。

 

 朱はハッとして手を伸ばした。華弥の頬を両手で包むようにしてのぞき込む。普段とはちがう、かさついた感触がした。

 

「華弥、あんた具合が悪いんじゃないのかい」

 

 すると華弥は、ばつが悪そうに笑った。

 

「ちょっとね、風邪をひいちゃったみたい。でも大丈夫、たいしたことはないの。ただ、なかなかすっきり治らなくて、姉さんに心配かけたくなくて、うつしちゃ悪いし……その……」

 

 だから朱を避けていたのか。

 

「馬鹿だね」

 

 そっと引き寄せて、抱きしめた。慣れない化粧も、たぶん、顔色を隠すためのものなのだろう。

 

「あたしがだれよりも丈夫なの、知ってるだろ?」

「……うん」

「気づいてあげられなくて、ごめんね」

「ううん。わたしこそ、ごめん。ごめんね、姉さん」

 

 抱きしめ返してくれる腕が、愛おしかった。

 

「でもよかった。じつはほんのちょっとだけ不安だったんだ。もしかして、あんたに嫌われちゃったんじゃないかって」

「そんなわけない!」

 

 ため息交じりにこぼした本音を、さえぎったのは華弥の強い声だった。朱の胸に寄せていた顔を上げ、まっすぐに見つめてくる。

 

「そんなこと、あるわけがないじゃない。わたし、姉さんが大好きだもの。だれよりも大好きだもの」

 

 黄金色(こがねいろ)の目がうるんできらめく。

 

「だからね、ちょっと、嫉妬したの。姉さん、人気者だから。みんな姉さんが大好きだから。それはもちろん、うれしいし、あたりまえのことだと思うけど、でも」

 

 再び朱の胸に顔をうずめる。華奢(きゃしゃ)な腕が、ぎゅっと背中をしめつけた。

 

「わたしの姉さんだもの。姉さんの妹はわたしだけだもの」

 

 くぐもった声は、いつになく子どもっぽかった。

 

「華弥……」

 

 こんなしあわせを感じることが、ほかにあるだろうか。

 

 朱もいっそう強く華弥を抱きしめた。このぬくもりを手放したくなかった。

 

「うん、そうだよ。あたしの妹は華弥だけ。あたしは華弥のお姉ちゃん」

 

 その事実を、噛みしめた。

 

「だけどね、ほかの子たちも大事。このままずっと一緒にいたいなって思う。だからお姉ちゃん、これからもみんなで仲よく楽しく暮らせるように、自分にできることをやっていこうって決めたんだ」

 

 朝焼け色の髪を撫でる。ゆるゆると腕の力を抜いた華弥が、慎重に顔を上げた。その目を見つめて、言う。

 

「あたしもがんばるよ、華弥。だって、みんなあんたの家族になるんだもん。あんたが大后(おおきさき)としてまとめる、家族になるんだもん。でもあんたのお姉ちゃんはあたしだけだから、なにかあったら、いちばんに頼ってほしいなあ」

 

 瞳に映り込んだ夏空が、まぶしかった。

 

「一緒にいようね。これから先もずっと。大好きだよ、華弥。だれよりも愛してる」

 

 その(しずく)が、華弥の目尻からこぼれて、頬を伝った。

 

「わたし、わたしね」

 

 震える声がする。

 

「後悔してたの。姉さんを無理やり連れてきちゃった。姉さんの人生を無理やり変えちゃった。でも姉さんにしあわせになってほしかったの。いつもわたしのことばっかり考えてくれて、自分のことは二の次で、結婚だって、わたしがいなければいつだってできたのに!」

 

 胸が、高く跳ねた。

 

 ちがう。そうじゃない。華弥はなにも悪くない。

 

 あれは自分で選んだことで、いまだって自分で選んだからここにいるわけで、華弥が責任を感じることなんてなにひとつない。

 

 華弥と一緒にいたいのだ。華弥のそばにいることが朱のしあわせなのだ。もうとっくに、ずっとまえから、朱はしあわせだったのだ。

 

 そう、思うのに。

 

 どんなにがんばっても、口はうまく、動かなかった。

 

「姉さん、お願い。ほんとうのことを教えて」

 

 華弥がすがるように朱の腕を掴む。息を吸い込む。

 

 朱は咄嗟(とっさ)に体を引こうとした。だが華弥がそれを許さない。

 

 くもりのない瞳が迫る。まっすぐに朱を刺す。

 

 だめだ。やめて。頼むから。

 

 それ以上は言わないで。

 

「姉さん。ほんとうは守里(シュリ)兄さんのこと――」

「馬鹿だねえ」

 

 すんでのところで華弥の言葉をさえぎって、朱は笑った。

 

「とっくに忘れたよ、そんなこと」