「あらあ、その髪型いいわねえ」
夜。気合いを入れて部屋に戻ると、そこにいたのは呼覚だけだった。寝台の上でくつろぎながら木簡を眺めていたらしい。いくつかは足もとまで散乱している。
「あ、うん。昼間、叶舎さんがやってくれたんだ。……あの子たちは?」
「お散歩に行ったみたいよお」
呼覚が答えて手まねきする。朱はまねかれるまま呼覚の寝台に腰かけ、ふわりとほほ笑む顔を見つめた。
いま、彼女の目には普段とまったくちがう朱が映っているはずだ。
叶舎の手によって丁寧に梳られた赤い髪は、上半分だけがゆるく丸いかたちにまとめられ、残りは肩や背中に垂らされている。その流れはなめらかで、およそ自分のものとは思えない。いったいなにをどうすればこうなるのだろう。
「さすが叶舎さんねえ。とってもよく似合っているわあ」
呼覚が感心するのに、朱も同意した。あえて凝った髪型にしなかったのは、朱の男装にもなじむようにという配慮だろう。
「でも、なんだか申し訳ないね。こんなにきれいにしてもらっちゃってさ」
「どうしてえ?」
呼覚が小首をかしげる。朱は足もとに視線を落とした。
「だって、ほら、あたしはこんなんだし。ほとんど男みたいなもんじゃないか。じっさい女扱いされたことなんてないしさ」
顔を上げると、自身の乾いた笑い声が部屋に響いた。
「朱さん」
寝台のふちについていた手に、呼覚の手が重なった。
「それは他人が見たあなたでしょう? あなた自身は、あなたのことをどう思っているのお?」
呼覚の目を見る。おだやかな目だ。
朱はつり上げていた口角をおろした。ゆるく開いたくちびるを、そのままちいさく動かす。
「あたしは……」
その先は思いつかなかった。
「よく、わかんない」
「そう」
呼覚はうなずいて、いっそうやわらかく笑んだ。
「むずかしいわよねえ。わたしも自分のことってあんまりよくわからないのよお。ひとに言われるとそうかなって思うけど、でもやっぱりちがうような気もするのよねえ」
言葉を続けながら、ゆっくりと移動して朱のとなりに腰かける。やわらかい肩が触れた。呼覚はどこか遠くを見ているようだった。
「わたしねえ、むかし、すごく好きだったひとがいたのお。そのひと、そんなに裕福ではなかったみたいだけど貴族でねえ。歌を教えてくれたのも彼だったわあ」
窓の外で虫が鳴く。夜は一段深くなり、朱たちの足もとにやさしく沈んだ。
「人目をしのんで歌のやり取りを続けてねえ。そのたびにときめいて、もう死んじゃうんじゃないかと思ったわあ。でもねえ。あるとき、彼からの便りがぷっつり途絶えたのお」
重ねられた手が、ほんのすこしだけ震えた。
「あとで知ったことだけど、彼、そのころに結婚したみたい。お相手が由緒正しい家のお媛さまだったのねえ。どんどん出世して、奥さんもどんどんもらって……きっともう、わたしのことなんて忘れているわねえ」
呼覚の横顔は静かで、しなやかだった。
一拍の間ののちに、彼女は続けた。
「いまだにわからないのよお。わたしが好きだったのは彼なのかしら? それとも彼の歌なのかしら? 彼とわたし、ほんとうにひどいのはどっちだったのかしらって、ときどき、考えるのよねえ」
虫の音がその語尾をさらう。
わずかな灯りがゆらめいた。朱が身じろぎすると、寝台に散らばる木簡がかすかな音をたてた。
あとはなにも聞こえなかった。
朱は軽く足を伸ばして、またおろした。つま先を何度か動かし、かかとを何度も持ち上げ、やっとおさまりのいいところに落ち着ける。足裏に床板のなめらかな感触がした。
細く、長く息を吐き出した。
「呼覚さん」
「なあに?」
正面を見据える。そこには華弥の寝台がある。
「あたし、わかんなくてもいいのかな。ぜんぶ、なにもかも、わかんなくてもいいのかな。決められなくてもいいのかな」
華弥の涙が胸を濡らす。こだまとなって響いて落ちる。
「答えられなくてもいいのかな」
呼覚の手が朱の手を強くにぎった。押しつけられるようにぐっと全身が近づいて、すぐ離れる。両手を背中のほうについた呼覚は、大きくのけぞって天井を見た。
「それはわたしも教えてもらいたいかもお!」
そのままうしろに倒れこむ。木簡が派手に暴れた。書きつけられた歌の数々が、呼覚のまわりで声をあげた。
朱はしばらく目をしばたたかせ、そして、笑った。
「そうだよねえ!」
呼覚も笑った。二人で、心ゆくまで笑った。
やがてその波が去ると、呼覚がむくりと起き上がって言った。
「ねえ、朱さん。わたしねえ、これがとっても好きなのよお」
見て見て、と木簡をあさりはじめた彼女が、そのうちのひとつを選んで差し出す。だいぶ使い古された感じのそれには、拙くすら見える大胆な筆致でこう書かれていた。
大地に根を張る花よりも
天吹き渡る風よりも
私は私という地に深く根差し
広く心を渡って行きたい
「……これは?」
「だれが書いたかもわからない、そこらへんに打ち捨てられていた木簡よお。歌とも呼べない――きっと、ひとりごとのようなものだったのねえ」
朱は呼覚の手からそれを受け取り、まじまじと見つめた。飾らない、けれどままならない思いが、文字を通してまっすぐに伝わってくるようだった。
なぜだか胸が震えた。
肌は粟立ち、目の奥が熱くなった。
どこまでも広い天地にのまれそうになりながら、それでもたしかにそこに立つ自分を感じた。
「呼覚さん、聞いてくれる?」
「もちろんよお。なあにい?」
「あたしはね、選んだつもりで、いつだって選べてなかったんだ。華弥も父さんも、――守里も。みんな大事で、選びたくて、選びきれなかった」
「……守里さんって、どういうひとか聞いてもいい?」
「おさななじみ。それで、あたしの初恋のひと」
なぜだろう。いまなら素直にそう言える。
「一度は幼い華弥を置いて、あいつについていこうとしたこともある。結局ギリギリのところで思いとどまったけど、それを華弥は自分のせいだと思ってるみたい」
呼覚がすこし眉をくもらせた。遠慮がちに、ちいさく問う。
「そのひと、いまは?」
「防人に行って帰ってこなかった」
海外からの攻撃に備えて西方の沿岸を護るために置かれる防人は、遠く東の郷から集められる。とくに六ノ郷の者は東夷との戦いに慣れているという理由で、よく徴用された。任期は三年。守里を見送ったのは、七年まえだ。
「ちゃんと選んだと思ってた。華弥と一緒にいるって、自分で決めたはずだった。でもほんとうは、この子さえいなければって、どこかでそう思ってたんだ」
自分の言葉に、のどが締めつけられた。
「あたし」
うまく声にできない。無理やり押し出す。
「あの子をずっと傷つけてる。なのにまだ選べない。決められない。答えられない、わかんない、それでも」
息がつまって、視界がにじんで、
「やっぱり大好きって、伝えてもいいのかなあ?」
ほとんどなにも、見えなくなった。
やわらかな影が、さらに朱の視界をふさいだ。あたたかい。呼覚の腕だった。
「それを悩むのも、あなたでいいのよお」
目を閉じた。
このあふれる気持ちを返したいのに、もう、言葉にならなかった。