四、ちゃんと向き合って


(3)呼覚の場合


「あらあ、その髪型いいわねえ」

 

 夜。気合いを入れて部屋に戻ると、そこにいたのは呼覚(こさめ)だけだった。寝台の上でくつろぎながら木簡(もっかん)を眺めていたらしい。いくつかは足もとまで散乱している。

 

「あ、うん。昼間、叶舎(かなりや)さんがやってくれたんだ。……あの子たちは?」

「お散歩に行ったみたいよお」

 

 呼覚が答えて手まねきする。(あき)はまねかれるまま呼覚の寝台に腰かけ、ふわりとほほ笑む顔を見つめた。

 

 いま、彼女の目には普段とまったくちがう朱が映っているはずだ。

 

 叶舎の手によって丁寧に(くしけず)られた赤い髪は、上半分だけがゆるく丸いかたちにまとめられ、残りは肩や背中に垂らされている。その流れはなめらかで、およそ自分のものとは思えない。いったいなにをどうすればこうなるのだろう。

 

「さすが叶舎さんねえ。とってもよく似合っているわあ」

 

 呼覚が感心するのに、朱も同意した。あえて()った髪型にしなかったのは、朱の男装にもなじむようにという配慮だろう。

 

「でも、なんだか申し訳ないね。こんなにきれいにしてもらっちゃってさ」

「どうしてえ?」

 

 呼覚が小首をかしげる。朱は足もとに視線を落とした。

 

「だって、ほら、あたしはこんなんだし。ほとんど男みたいなもんじゃないか。じっさい女扱いされたことなんてないしさ」

 

 顔を上げると、自身の乾いた笑い声が部屋に響いた。

 

「朱さん」

 

 寝台のふちについていた手に、呼覚の手が重なった。

 

「それは他人が見たあなたでしょう? あなた自身は、あなたのことをどう思っているのお?」

 

 呼覚の目を見る。おだやかな目だ。

 

 朱はつり上げていた口角をおろした。ゆるく開いたくちびるを、そのままちいさく動かす。

 

「あたしは……」

 

 その先は思いつかなかった。

 

「よく、わかんない」

「そう」

 

 呼覚はうなずいて、いっそうやわらかく笑んだ。

 

「むずかしいわよねえ。わたしも自分のことってあんまりよくわからないのよお。ひとに言われるとそうかなって思うけど、でもやっぱりちがうような気もするのよねえ」

 

 言葉を続けながら、ゆっくりと移動して朱のとなりに腰かける。やわらかい肩が触れた。呼覚はどこか遠くを見ているようだった。

 

「わたしねえ、むかし、すごく好きだったひとがいたのお。そのひと、そんなに裕福ではなかったみたいだけど貴族でねえ。歌を教えてくれたのも彼だったわあ」

 

 窓の外で虫が鳴く。夜は一段深くなり、朱たちの足もとにやさしく沈んだ。

 

「人目をしのんで歌のやり取りを続けてねえ。そのたびにときめいて、もう死んじゃうんじゃないかと思ったわあ。でもねえ。あるとき、彼からの便りがぷっつり途絶えたのお」

 

 重ねられた手が、ほんのすこしだけ震えた。

 

「あとで知ったことだけど、彼、そのころに結婚したみたい。お相手が由緒正しい家のお(ひめ)さまだったのねえ。どんどん出世して、奥さんもどんどんもらって……きっともう、わたしのことなんて忘れているわねえ」

 

 呼覚の横顔は静かで、しなやかだった。

 

 一拍の間ののちに、彼女は続けた。

 

「いまだにわからないのよお。わたしが好きだったのは彼なのかしら? それとも彼の歌なのかしら? 彼とわたし、ほんとうにひどいのはどっちだったのかしらって、ときどき、考えるのよねえ」

 

 虫の()がその語尾をさらう。

 

 わずかな灯りがゆらめいた。朱が身じろぎすると、寝台に散らばる木簡がかすかな音をたてた。

 

 あとはなにも聞こえなかった。

 

 朱は軽く足を伸ばして、またおろした。つま先を何度か動かし、かかとを何度も持ち上げ、やっとおさまりのいいところに落ち着ける。足裏に床板のなめらかな感触がした。

 

 細く、長く息を吐き出した。

 

「呼覚さん」

「なあに?」

 

 正面を見据える。そこには華弥(はなび)の寝台がある。

 

「あたし、わかんなくてもいいのかな。ぜんぶ、なにもかも、わかんなくてもいいのかな。決められなくてもいいのかな」

 

 華弥の涙が胸を濡らす。こだまとなって響いて落ちる。

 

「答えられなくてもいいのかな」

 

 呼覚の手が朱の手を強くにぎった。押しつけられるようにぐっと全身が近づいて、すぐ離れる。両手を背中のほうについた呼覚は、大きくのけぞって天井を見た。

 

「それはわたしも教えてもらいたいかもお!」

 

 そのままうしろに倒れこむ。木簡が派手に暴れた。書きつけられた歌の数々が、呼覚のまわりで声をあげた。

 

 朱はしばらく目をしばたたかせ、そして、笑った。

 

「そうだよねえ!」

 

 呼覚も笑った。二人で、心ゆくまで笑った。

 

 やがてその波が去ると、呼覚がむくりと起き上がって言った。

 

「ねえ、朱さん。わたしねえ、これがとっても好きなのよお」

 

 見て見て、と木簡をあさりはじめた彼女が、そのうちのひとつを選んで差し出す。だいぶ使い古された感じのそれには、(つたな)くすら見える大胆な筆致でこう書かれていた。

 

 大地に根を張る花よりも

 天吹き渡る風よりも

 私は私という地に深く根差し

 広く心を渡って行きたい

 

「……これは?」

「だれが書いたかもわからない、そこらへんに打ち捨てられていた木簡よお。歌とも呼べない――きっと、ひとりごとのようなものだったのねえ」

 

 朱は呼覚の手からそれを受け取り、まじまじと見つめた。飾らない、けれどままならない思いが、文字を通してまっすぐに伝わってくるようだった。

 

 なぜだか胸が震えた。

 

 肌は粟立(あわだ)ち、目の奥が熱くなった。

 

 どこまでも広い天地(あめつち)にのまれそうになりながら、それでもたしかにそこに立つ自分を感じた。

 

「呼覚さん、聞いてくれる?」

「もちろんよお。なあにい?」

「あたしはね、選んだつもりで、いつだって選べてなかったんだ。華弥も父さんも、――守里(シュリ)も。みんな大事で、選びたくて、選びきれなかった」

「……守里さんって、どういうひとか聞いてもいい?」

「おさななじみ。それで、あたしの初恋のひと」

 

 なぜだろう。いまなら素直にそう言える。

 

「一度は幼い華弥を置いて、あいつについていこうとしたこともある。結局ギリギリのところで思いとどまったけど、それを華弥は自分のせいだと思ってるみたい」

 

 呼覚がすこし眉をくもらせた。遠慮がちに、ちいさく問う。

 

「そのひと、いまは?」

防人(さきもり)に行って帰ってこなかった」

 

 海外からの攻撃に備えて西方の沿岸を(まも)るために置かれる防人は、遠く東の(さと)から集められる。とくに六ノ郷の者は東夷(えみし)との戦いに慣れているという理由で、よく徴用された。任期は三年。守里を見送ったのは、七年まえだ。

 

「ちゃんと選んだと思ってた。華弥と一緒にいるって、自分で決めたはずだった。でもほんとうは、この子さえいなければって、どこかでそう思ってたんだ」

 

 自分の言葉に、のどが締めつけられた。

 

「あたし」

 

 うまく声にできない。無理やり押し出す。

 

「あの子をずっと傷つけてる。なのにまだ選べない。決められない。答えられない、わかんない、それでも」

 

 息がつまって、視界がにじんで、

 

「やっぱり大好きって、伝えてもいいのかなあ?」

 

 ほとんどなにも、見えなくなった。

 

 やわらかな影が、さらに朱の視界をふさいだ。あたたかい。呼覚の腕だった。

 

「それを悩むのも、あなたでいいのよお」

 

 目を閉じた。

 

 このあふれる気持ちを返したいのに、もう、言葉にならなかった。