二、大后の座をかけて


(3)温泉掃除大作戦


 最初に動いたのは叶舎(かなりや)だった。

 

 いろどりよく重ねた美しい着物を次々と脱ぎ捨て、金や(ぎょく)の飾りも迷わず取り払ってしまう。ついに肌着だけとなった彼女は、意気揚々と言い放った。

 

「それで、どうすればよろしいの!」

 

 まあそうなるよな、と(あき)は思った。自分でやる気があるだけえらい。箸より重いものは持ったこともないであろう媛君(ひめぎみ)だ。

 

 叶舎ほどではないにしろ、ほかの候補生もだいたい朱たち姉妹よりはいいものを着ていた。ただしこれは出身地による差もあるのかもしれない。それぞれの(さと)には、都から近い順に一から六までの番号が振られている。つまり朱たちの故郷である六ノ郷はもっとも都から遠く、叶舎に言われたとおりの「ど田舎」なのである。

 

「よし」

 

 ここは朱がひと肌脱ぐしかあるまい。

 

 たとえ同じ庶民だとしても、こちとら古式ゆかしい竪穴(たてあな)住居生活だ。しゃれた板葺(いたぶ)き屋根の並ぶ郷々からお越しのみなさんとは、土台がちがうのである。

 

「掃除用具は貸してもらえるのかね?」

 

 典侍にたずねると、彼女は鷹揚(おうよう)にうなずいた。

 

「必要と思われるものは用意してあります。足りなければお申しつけください。使えるものは使ってよろしいと、主上よりおおせつかっております」

 

 ならばなんの問題もない。

 

 朱はいまやこの惨状をなんとかしてやりたいと思っていた。こんなに立派な宮城内で、ここだけボロボロなのはあまりにかわいそうだ。あと単純に温泉に入りたい。

 

 擦り切れた袖をぐいとまくり上げた。山と積まれた掃除用具のなかから、とりあえず(ほうき)を選んで取り出す。立ちつくす娘たちのまえに出て、それを構えた。

 

 そして朱は、羽虫の壁を突き崩した。

 

「あたしが血路をひらく! 叶舎さん、ついてきな!」

 

 棒術の要領で振り回した箒が、うなる風となって羽虫たちを蹴散らす。そのあおりを受けた娘たちの悲鳴が聞こえるが、まあ、多少は勘弁してもらいたい。どうせそのうち羽虫もあきらめて去っていくだろう。だがいまは陣地を守ろうと戻ってくる彼らをねじ伏せ、叶舎を前線へ送り出すことが最優先なのである。

 

「いまだよ、叶舎さん!」

「え、ええ!」

 

 いい返事だ。叶舎が飛び出した。目指すは泥に埋もれた温泉、ただそれだけである。

 

「たあー!」

 

 その心意気やよし。雄たけびをあげた叶舎はそのまま、まっすぐに温泉に突っ込んでいった。そして。

 

「きゃあーっ!」

 

 見事に泥のなかへと消えたのであった。

 

「叶舎さーん!」

 

 そもそもあの子は道具も持たずになにをするつもりだったのだろうか。

 

 朱が助け出すまでもなく、叶舎は自力で帰還した。最初の華麗さはどこへやら、全身どろどろの泥まみれだ。その真っ黒な顔面の、口とおぼしき部分が開く。

 

 そこから転げ出たのは、盛大な笑い声だった。

 

「なんですの、これ、なんですの!」

 

 言いながらなおも笑い続ける。

 

「楽しいわ!」

 

 たいした媛君だ。

 

 朱は驚くとともに感心し、そのうちつられて吹き出した。

 

 二人ぶんの笑い声が響く。羽虫の残兵が勢いよく口のなかに飛び込んできて、すこしむせた。それでも愉快な気分は損なわれなかった。

 

 しばらくすると、湯殿(ゆどの)のすみに固まっていた集団のなかから華弥(はなび)が顔を出した。朱の横を素通りし、まだ肩を揺らしている叶舎に近づいていく。それから彼女にそっと耳打ちすると、二人で示しあわせたようにニッと笑った。

 

 つぎの瞬間、朱の視界が黒く染まった。

 

 あわてて目もとをぬぐえば、べっとりと手のひらにこびりつく泥。それから泥の塊を両手に乗せた叶舎の笑顔。そのとなりでは、華弥が楽しそうに口もとを隠している。

 

「華弥、あんた叶舎さんになに吹き込んだんだい?」

「いやだわ、姉さん。人聞きの悪い」

「そうですわよ、朱さん。華弥さんはただこういうときの作法を教えてくださっただけですわ」

 

 まったく、短時間で仲よくなりすぎだ。

 

「なるほど、作法ねえ……」

 

 朱は肩や手首をまわしながら悠々と温泉に近づいた。へりまで行くと膝をつき、両手をひたす。温泉であたためられた泥はなめらかで、存外、心地よかった。

 

「なら、こっちもちゃんとした作法でお返ししないとね!」

 

 叶舎と華弥に向けて思いきり泥をはね上げる。明るい悲鳴がふたつ、あがった。

 

「やったわね、姉さん!」

「華弥さん、わたくしたちも負けていられませんわよ!」

 

 言うやいなや、叶舎の手から泥玉が繰り出される。華弥もそれに加勢した。数で優位に立ったつもりだろうが、かわいいものだ。

 

「あたしがほんものの泥合戦ってやつを教えてやろうじゃないか」

 

 朱は飛んでくる玉を防ぎ、あるいはよけながら、みずから泥温泉へと身を躍らせた。派手なしぶきがあがる。再び悲鳴のあがったほうを振り向いて、高らかに告げた。

 

「さあ、これで武器はぜんぶあたしのもんだよ。ちょっとでも盗もうとしたらその瞬間にとっておきをお見舞いするからね」

「あっ、ずるい!」

「そうですわ、卑怯ですわ!」

 

 頭から泥をかぶったらしい二人が、きゃんきゃんと吠えた。

 

「卑怯なもんかい。くやしかったらここまでおいで」

 

 言いながらまた全身で大量の泥をすくい上げる。が、それが思わぬ事態をまねいた。

 

 体のひねりと回転によって勢いよく放たれた泥は、とっさに顔をかばった華弥の、さらにそれをかばうように抱き寄せた叶舎の上空を通り過ぎて、その向こうへと飛んでいく。すなわち、呆然と突っ立っていた妃嬪(ひひん)候補たちの頭上。そこに、朱の渾身の一撃が降り注いだのである。

 

 一拍遅れて、重なる金切り声が耳をつんざいた。

 

「ありゃ」

 

 やっちまった、と朱は頭を掻いた。しかしそのすぐそばでは、叶舎が目を爛々(らんらん)とさせていた。

 

「この際ですわ、みなさん一緒に楽しみましょう!」

 

 泥まみれの両腕を広げて走り出す。気づけば華弥までもがうれしそうに泥玉を構えていた。あわれ、その毒牙にかかった候補生の口から、個性豊かな絶叫がつぎつぎと生まれる。

 

 ところが、次第にそれも弾む声に変わり、しばらく経つと湯殿は完全に若い娘たちの遊び場と化した。

 

 もうきれいな恰好をした者などひとりもいない。みな泥玉の飛び交う温泉のなかでじゃれあい、ときに競いあい、思い思いに喚声(かんせい)をあげている。

 

 もちろん朱もおおいに楽しんだ。ついさきほどまで見ず知らずの他人だった仲間たちと、息が切れるまで馬鹿騒ぎした。いつの間にか、知らない名前はひとつもなくなっていた。

 

 やがて荒い息づかいばかりが聞こえるようになったころ、だれかが言った。

 

「もう、これじゃいやでも掃除するしかないじゃない!」

 

 それがやけにおかしくて、みんなで笑った。

 

「よし、手分けしてさっさと終わらせちゃおう。このままじゃ部屋に戻れないもんね」

 

 朱が泥のなかから立ち上がれば、「そうですね、きれいになった温泉でさっぱりしましょう」とかたわらに座っていた子がうなずく。続いて「よーし」「やろやろ」「しょうがないわねー」などという返事がいくつも聞こえて、全員が立ち上がった。

 

 自然と集まった視線を受けて、朱は大きく息を吸う。

 

「やるぞー!」

「おおー!」

 

 一斉に振り上げたこぶしを、高く昇った太陽が照らした。

 

 そこからはたいへんだった。よどんだすべての汚れを掻き出し、自分たちで散らかした泥も集め、湯殿の外へ運び出す。力仕事はほとんど朱が受け持ったが、さすがに手が足りないので女宮侍補(にょきゅうじほ)たちにも手伝ってもらった。

 

「なんであたくしたちまで……」

 

 という枝乃(イノ)の恨み言は聞かなかったことにする。主上は「使えるものは使っていい」と言っていたらしいから、たぶんこれも許されるだろう。

 

 雑草や腐敗した落ち葉は、農業先進地である五ノ郷の出身者が強く勧めたことにより、宮城の菜園で肥料として使われることになった。それ以外のところでもさまざまな意見や知恵が集まり、作業効率はどんどん上がっていく。とくに役割分担を決めたわけでもないのに、それぞれの得意分野で力が遺憾なく発揮された結果、自然と最適な人員配置がなされているようだった。

 

 みんな選ばれてここにいるのだ、と実感する。華弥と叶舎も、その中心で生き生きと働いているようだ。朱は声をかけてまわりながら力仕事をこなし、未来の後宮を思い描いてそっと目を細めた。

 

 そうして、夕陽があたり一面を黄金に染めたころ。

 

 澄みきった湯気をまとってきらきらと輝く温泉をまえに、妃嬪候補たちは歓喜の声をあげて抱きあったのである。