伝える、というのは、とても難しいことだと朱は思う。
言葉があるのだから素直に言えばいいのにとも思うが、そうできない事情が多々あるのも知っている。あるいは、あえて言葉にしないことで思いを伝えるという手段があることも。
けれど、そもそも自分自身がそれに気づけなかった場合、もう伝えられなくなってしまった思いはどうすればいいのだろう。
たとえば、知らぬ間に終わっていた初恋のように。そのときはじめて気づく、失恋の事実のように。
そういうことを無理やりにでも整理するために生まれたのが、文字や文なのかもしれない。――と、朱に思わせるほど、後宮で習う「文学」はまわりくどくて独りよがりで、とにかく難解だった。
「これはひとに読ませる気があるのかね?」
文字のずらりと並んだ木簡をにらんで、朱は眉間にしわを寄せる。隣で華弥が「ないわけではない……と思うんだけど」と苦笑いを浮かべた。
朱も華弥も、むかし役人だったという父の手ほどきで読み書きはひととおり習得している。しかしこういう「奥ゆかしい」貴人のたしなみ、とくに詩歌のやり取りなどには一切触れたことがなく、その独特のややこしさに手を焼いていた。
後宮生活、十四日目の午後である。
「まずい。眠くなってきた」
「しっかりして、姉さん。このあと試験よ」
妃嬪候補の毎日は基本的に、講義と、その理解度をたしかめるための試験で成り立っている。やはり一日目の温泉掃除はかなり特殊だったらしい。あれ以来、主上から直々に与えられた課題はなく、その意図もつかめぬままだ。
講義にもいろいろあって、体を思いきり動かすものは朱も得意なのだが、座学はどうにも苦手だった。
その点、華弥は歴史や算学にずば抜けて強く、叶舎は未来の大后を自称するだけあって全体的にそつなくこなす。そして文学に対する理解や感性においては、呼覚の右に出るものはいなかった。
「くやしいけれど、今日も呼覚さんには負けましたわ」
銅鑼がその日の試験終了を告げたとき、叶舎が机に突っ伏して言った。
「あらあ、ありがとう。叶舎さんの歌もすてきだったわよお」
呼覚がやわらかく笑う。
今日の試験は、先生の歌に即興で返すというものだった。この先生というのは講義内容によって担当が異なっており、男性もすくなくない。
つまり女宮侍補はそのすべてに目を光らせなくてはならないわけで、枝乃もなかなかたいへんなんだなと思う。といっても、講師は眉毛まで白いおじいさんばかりなのだが。
「あー、こんなこと言うのも悪いんだけどさ。文学の教養なんてのは、あたしらに必要なのかね?」
朱が頭を掻くと、叶舎と呼覚が瞬時に振り向いた。
「当然ですわ」
「とっても大事よお」
口をそろえて言う。続けて叶舎が「妃嬪ともなれば大陸からのお客さまをおもてなしする機会だってありますもの。そのときに詩歌のひとつでも披露できなければ、恥をかかれるのは主上ですのよ」と息巻き、それに呼覚が「そうねえ。とくに詩は、もともとあちらの文化だしねえ」とおだやかにうなずいた。
「それにねえ、文章を書くことが主なお仕事、っていう妃嬪の位もあるのよお。わたしはねえ、それになりたいのお」
ふわりと目を細める。
意外だった。妃嬪のうちにそういう仕事を請け負うひとがいるということにも驚いたが、朱はてっきり、呼覚も大后の位を目指しているのかと思っていたのだ。
「尚侍っていってねえ。もともとは典侍の上の役職で、つまりいちばんえらい女官だったんだけどお、いつのころからか後宮に組み込まれるようになったみたい」
典侍とは役職名だったのか。それすらも知らなかった朱は、余計なことを言わぬように口を結んだ。
叶舎が納得した顔でうなずく。
「呼覚さんならぴったりですわね。きっと主上も喜んでおまかせになると思いますわ」
後宮のことがいまいちよくわかっていない朱たち姉妹は、そろって首をかしげるしかなかった。
叶舎と呼覚の説明によれば、尚侍は主上と臣下の仲介役という、たいへん重要な仕事を担っているらしい。主上とその家族の私的空間である後宮には、原則として臣下は入り込めない。したがって公務の場以外で相互のやり取りを行う場合、それを取り次ぐ者が必要になるのである。
「けれど現人神であらせられる主上のお言葉を、わたくしたちが軽々しく口頭で伝えるわけにもいきませんでしょう? ですから尚侍が書きとめて、さらに形式にのっとったうえで格調高く整えたものを、公式の文書として通達しますの」
並大抵の実力では務まらないのだ、とどこか誇らしげに言う叶舎は、心から呼覚の才能を認めているのだろう。正直なところ朱には作の善し悪しがよくわからないが、そういう関係はとても好ましく思えた。
「叶舎さんと華弥さんは、大后を目指しているのよねえ」
そう言う呼覚もうれしそうだ。
「もちろんですわ。わたくしは我が国の礎になりたいの。そのためには、大后になるしかありませんもの」
叶舎の目が輝いた。ずいぶんと大きな目標だ。朱にはとても考えつかない。
さしあたって、朱の目標といえば「華弥をしあわせにすること」だけである。それがほかより劣っているとは思わないが、当の華弥がどう考えているかは気になるところである。
自然、全員の視線が華弥のもとに集まった。黄金色の目が応えて一度まばたきをする。それからゆっくり開いたくちびるが、告げた。
「わたしは、主上を愛しているからです」
揺るぎのない声だった。
だれかに向かって主張するというわけでもない、だれかの意見を否定するためでもない、ただ自分のなかの思いを、自分自身でたしかめるために発する声。強い、気持ちだった。
「主上を愛しているから、おそばにいたいから、わたしは大后になりたいです。どうしても、なりたいんです」
「華弥、あんた……」
朱はもういてもたってもいられなかった。尻の下にあった敷物を蹴るように立ち上がり、華弥を見下ろす。朝焼け色の髪に影が落ちた。見上げてくる瞳をじっと捉えて距離を詰める。そして勢いよく膝をつくと、華弥の両肩を掴んだ。
「おとなになったねえ……!」
感動のあまり手が震えた。
「あんたの口からそんな言葉が出てくるなんて、お姉ちゃんなんて言ったらいいか……ああ、そうだよね、あんたももうそんな年ごろだったんだね。よかった、好きなひとのところに嫁がせてやれてほんとうによかった!」
「まだ嫁いでませんわよ」
叶舎の声はあまり気にしないことにする。
「あたしはさ、ほら、こんなんだから、あんただけでもちゃんと送り出してやらなきゃって。うれしいねえ。お姉ちゃん、あんたの恋の成就のためならなんだってやるからね」
「姉さん」
華弥の表情が、そのときすこし翳ったように見えたのは気のせいだろうか。それをたしかめる間もなく、朱は背中に衝撃を受けてちいさくうめいた。
「聞き捨てなりませんわ!」
叶舎だ。うしろから抱きつくようにして朱をつかまえている。
「華弥さんはわたくしと真剣勝負をするんです。水を差さないでくださいな。もちろん、なにがあっても負ける気はしませんけれど!」
触れた頬がくすぐったかった。
ほんとうにいい子だな、と思った。まったく異なる理由で同じところを目指す華弥を、上にも下にも見ずにいてくれる。華弥はいい友達を持った。
「はいはい、ごめんよ。それはそうと叶舎さん、ちょっと苦しいんだけどね」
「これがわたくしの愛ですのよ」
「なんだいそりゃ」
思わず笑ってしまった。
「それじゃあわたしもお」
なぜか呼覚までもが便乗してのしかかってくる。叶舎が楽しげな悲鳴をあげた。華弥は動かず、笑って見ていた。
それがちょっとだけ、さびしかった。