再び目を開けた。見えたのはまぶしすぎるほどの青空と、立派な瓦屋根だ。
もちろん、父はいない。ただその代わりに、枝乃がいた。
「まあ堂々としたおさぼりでございますこと」
地べたに寝転ぶ朱の視界に、さかさまの顔が映り込む。別段怒っているふうでも呆れているふうでもなく、いつもどおりの細い目をした狐顔だった。
「べつにいいだろ」
「ええ、かまいませんよ。病欠だって認められておりますし、すべての講義を受けなければ妃嬪候補の資格を失うというわけでもございませんので」
淡々と言う。
「じゃあなんで枝乃さんはここにいるの」
「そりゃあなた、嫁入りまえの娘さんをお預かりしている以上、放っておくわけにもいかないでしょうよ」
それがちょっとおかしくて、朱は笑った。
枝乃だってたぶん、朱とそう変わらない年齢だろう。なのに「娘さん」だなんて、なんだか自分がうんと若い乙女にでもなったような気分だ。それこそ華弥のような。
「枝乃さん」
「なんです」
「頭さかさまになってるよ」
「それはあなたが寝転がっているからですよ」
枝乃の表情は変わらない。
「そっかあ」
ほっとした。その理由は自分でもよくわからないが、とにかくそんな心地だった。
「じゃあ、起きよっかなあ」
「ぜひそうしてください。こんな炎天下で寝ていたら体を壊します」
言いながら歩き出す。
「え、行っちゃうの」
「あたくしもひまじゃありませんから。まあとにかく、寝るなら室内か風通しのいい日陰で。考えごとをするにしても、そこでは暑すぎると思いますよ」
では、と軽く頭を下げただけであとは振り向くこともせず、ほんとうに行ってしまう。朱はその背中をぼんやり見送ると、だるい上体を起こして流したままの髪をかき上げた。
「……たしかにね」
指のあいだからこぼれた何本かが頬や首に張りつく。汗で濡れた手のひらはうまくすべらず、いくつもの赤いもつれをつくった。それをぐしゃぐしゃとかき混ぜて、立ち上がる。陽射しがいっそうまぶしく感じられた。
湧き立つ雲が、高く、厚く、大きく広がりながら重なっている。どこか故郷の山を思わせるあの向こうには、なにがあるのだろう。
夏色の蜻蛉が、白い峰と峰のあいだを軽々と越えていった。
「あら、朱さん」
背後から声がした。すぐにわかる。叶舎の声だ。
なんとなく棘のあるそれを受けとめて、朱は振り返った。案の定、そこにはばっちり化粧をした不機嫌そうな顔があった。
「ごきげんよう。お髪が乱れていてよ」
優雅な足取りで近づいてきて、ふところから櫛を取り出す。「ちょっとかがんでいただけないかしら」という彼女の要望に、朱は木陰を選んで座り込むことで応えた。かたわらに膝立ちした叶舎の手が、静かに朱の髪を持ち上げる。
「叶舎さん、こんなところでどうしたの。もしかしてさぼり?」
「あなたと一緒にしないでくださいませ。いまはお昼の休憩時間です」
突き放すような言葉とは裏腹に、櫛を入れる手つきは丁寧でやさしい。「ああ、そっか」と苦笑しながら、朱はその心地よさに身をまかせた。
しばらく沈黙が続いた。叶舎はずっと休むことなく、朱の髪を梳いていた。
やがて彼女がぽつりと言った。
「今日の華弥さんは、ちっとも講義に身が入っていませんのよ」
そのあいだも手は止まらない。
「先生がお呼びになっても、このわたくしが声をかけても、うわのそらですわ。張りあいがないったらありゃしない」
それを聞いてどこかで喜びを感じてしまった自分が、なさけなかった。
「……そっか」
「困りますのよ」
はじめて叶舎の手が止まる。
「彼女には真剣に大后を目指してもらわないと困ります。まあ、最終的に大后になるのは当然わたくしですけれど? 主上をお支えする優秀な妃嬪は多いほうがよろしいでしょうし?」
ふん、と鼻を鳴らした。それからまた櫛を動かしはじめる。
朱はゆるやかにかたちを変える雲を眺めながら、口を開いた。
「ねえ、叶舎さんはさ、どうしてそんなに立派な考え方ができるの」
背後から、いささか戸惑うような気配を感じた。朱はほんのわずかに首を動かし、そちらへ視線を向けた。
「ごめん。困らせるつもりじゃなかった。なんかいやな言い方になっちゃった」
すぐにもとへ戻す。
「ただ、すごいなって。えらいな、って、思ったんだ。あたしよりずっと若いのに、自分のことも、まわりのことも、国のことまで考えてる」
あたしにはとてもできない、とつぶやいたときである。
「できているじゃありませんの」
叶舎が言った。
「考えているじゃありませんの。いま。まさに」
なにごともなかったかのように朱の髪を梳き続ける。
「……あれ?」
朱は目を見開いた。
たしかに。そう言われてみれば。
「そうかも?」
上体ごとひねるようにして首をかしげると、叶舎から動くなとお叱りを受けた。あわてて姿勢を正す。
「それに、わたくしそんなに立派な人間じゃありませんわ。いえ、優秀なのはたしかですけれど」
叶舎の声が、めずらしく翳ったような気がした。
「国の礎になりたいというのは、本心です。でも、それはつまらない反発から生まれたものですわ」
櫛の入れ方が変わった。髪を根もとからすくい上げて、まとめようとしているらしい。朱はそれに注文をつけることも、話の先をうながすこともせず、ただ黙って叶舎の手にゆだねた。
ややあって、叶舎は言葉を継いだ。
「いやだったの。父や兄たちの言いなりになって生きるのは。わたくしがわたくしとして認められないのが、くやしかったのよ。それだけですわ」
地にしみるような声だった。
聞いたことはある。貴族の媛君というのもそれはそれでたいへんで、権力争いの道具として望まぬ相手のところへ嫁がされるのだと。それも、場合によってはどんどん夫が変わることもあるという。本人の意思とは関係なく。
まして叶舎は摂政の娘である。生まれがちがいすぎて朱にはピンとこないが、きっといろいろと思うところがあるのだろう。
「けれど、ねえ、朱さん。わたくし最近、ちょっと迷ってしまいますのよ」
それに朱は驚いて、思わず振り向こうとした。だがまたしてもお叱りを受け、おとなしくまえを見る。
「叶舎さんでも迷うことなんてあるんだ」
「わたくしをなんだと思ってますの?」
軽く髪を引かれた。
「正式に入内となれば、基本的に実家とは縁を切ることになるでしょう? それはむしろ望むところですけれど、このままそういうことになってもいいのかしら、とも考えてしまいますのよね」
ため息が聞こえた。朱はきょとんとした。
「え、実家と? そうなの?」
「あなたそれを知らずにここまで来ましたの?」
信じられない、といった調子で叶舎が言う。
「まず立候補した時点で聞かされているはずですわ」
「いやあ、まさか自分が妃嬪候補になるとは思わなかったから、ちゃんと聞いてなかったんだよね」
「嘘でしょう?」
「嘘じゃないんだなあ、これが」
また盛大なため息が聞こえた。朱は薄く笑って続ける。
「でも、まあ、うちはもともと華弥と二人きりだから、そこに関しては悩まなくて済むかな」
父親は生きている可能性がないとも言いきれないが、しかしこれで逆にすっきりするというものだ。税を納めにいったきり帰ってこられなくなる人間などごまんといる。その事実を、いま受け入れればいいだけなのだ。
「そう……。でしたら、もしかすると枝乃侍補どのは、最初からそれを考慮してあなたがたを選んだのかもしれませんわね」
叶舎がやわらかく言った。
朱はなにか、胸にじわりと広がるものを感じた。それはにぶい痛みにも似て、けれどひどくあたたかい。
「……いいひとだよなあ、ほんと」
やさしくて、すてきで、いいひとだ。みんな。
「さ、できましたわ。わたくしそろそろ戻りますわね」
叶舎がさっと立ち上がって、長いすそをひるがえした。帯がそれを追って上品に揺れる。彼女が毎日結び方を工夫しているおかげで、だれのものよりも美しく見える帯だ。みんな同じものを着用しているはずなのに。
「叶舎さん、あんたやっぱりすごいよ」
朱も立ち上がって言うと、叶舎はいつものように笑った。
「当然ですわ。だってわたくしですもの」
そうして堂々と歩き出す背中を、朱は見えなくなるまで見送った。肩にかかる髪を払うと、いつもよりいくらか素直な毛先が、風に流されてさらりと揺れた。