ここで会ったが百年目。
まず朱の脳裏に浮かんだのはそれである。
狙いを定めて土を蹴る。全速力で突進する。ぼけっとこちらを見る美しい顔めがけ、思いきりこぶしを突き出した。
ドン、と重い音が響いた。
朱のこぶしを受けた幹が揺れて、ざわざわとわめきたてる。その幹に背中をあずけて呆然とする少年の頬を、何枚かの葉がかすめて落ちた。
「よお、坊ちゃん……」
伸ばしていた腕を曲げ、ゆっくりと顔を近づけた。朱のほうが長身だから自然と見下ろすかたちになる。覆いかぶさるようにして逃げ道を塞げば、少年はただ困惑気味に笑うだけだった。
「お、おお? 熱烈だな?」
「このまえはどうも。って言ってもだいぶまえだけど」
ふしぎだ。見れば見るほど腹が立ってくる。
「うむ、覚えておる、覚えておるぞ。なんだ、また揉まれに来たのか」
「てめえこのやろうそんなわけがあるか」
これが華弥の恋する相手だというのか。
朱はため息をついた。かわいい華弥。自慢の妹。いまは遠いその笑顔が、眼裏に浮かんでは消える。
なさけない。
結局、朱はなにもわかってやれていないのだ。ずっとそうだった。はじめて会ったときからずっと、朱はあと一歩ほんとうの華弥に踏み込めない。
「どうした?」
静かな、声がした。
目をあわせる。少年の、星またたく夜空を映したような瞳のなかに、紅い炎がゆらめいている。地上の火とはちがう、血よりも赤い紅。
初代焔星王が天上よりもたらしたというその清き炎を身に宿すのは、かの血と天位を受け継ぐ者――治天下大王、そのひとだけだ。
「主上」
はじめて、それを口にする重さを感じた。
沈黙が降り、風が抜ける。どこからか紅梅の香りがする。
それが目のまえの少年のまとう空気であることにようやく朱が気づいたとき、彼はふっと笑って、言った。
「有琉人だ」
珠の鳴るような響きだった。
「有琉人」
「そうだ。朱」
今度は朱が驚く番だった。
「あたしのこと知ってるのかい?」
「もちろん。だれが妃嬪を選ぶと思っておる」
主上――有琉人はほんのすこしだけ乱れた横髪を耳に流し、そのまま朱の目もとまで手を伸ばした。触れた指は、熱くも冷たくもない。ふつうの、人間の、男の指だ。
「未来の妻たちに無関心でいられるほど、余は枯れてはおらぬのでな」
「そりゃその年で枯れてたらたいへんだろうよ」
言い返すと笑われた。指が離れていく。
「そうだな。なんなら全員抱くつもりだ」
朱の腕のなかから、するりと抜け出した。
「全員って、四十八人?」
「ああ。無理強いはせぬがな」
数歩進んで、振り返らずに月をあおぐ。
「そなたは乳がよい。あと丈夫な子を産みそうだ。叶舎もかわいいな、うん、かわいい。呼覚は腰がたまらんなあ、口もとの黒子もそそる」
「華弥は?」
これは不可抗力だ。この流れで聞くなというほうが無理である。
「華弥のことはどう思ってる?」
有琉人はすぐには答えなかった。
顔を夜空に向けたまま、なにかを噛みしめるように押し黙る。やがてゆっくりと視線を落とすと、体ごと振り返ってまっすぐに朱を見た。
「彼女はとくべつだ。ほかのみなには悪いが」
真剣な声だった。
「約束した。必ずともに生きようと。一度は離れ離れになったが、それでも彼女はここまで来てくれた」
朱の知らない華弥が、彼のなかにあった。
華弥の顔を、目を、声を、思い出した。愛している、と言った、あのときの華弥を。
「あの子のこと愛してる?」
「むろん。天地神明に誓って」
すとん、と、腑に落ちる感覚がした。
二人のあいだにあるものを、朱は知らない。知らないが、それでもわかるような気がした。
すこし、泣きそうになった。
「……あたしはさ」
言葉がこぼれる。
「あの子のこと、よく知らないんだ。たぶん、ほんとうは血がつながってないから。いや、どうだろ……うーん、半分はつながってるのかもしれないけど」
あふれて落ちる。
「あたしは母を知らない。ずっと父と二人きりで暮らしてきて、ある日突然、妹だって言って父が連れてきたのが、華弥だ。最初はぜんぜん口きいてくれなくってさ。いまは姉さんって呼んでくれるけど、全部を話してくれたことはない。だから、それまであの子がどこでどんなふうに過ごしてたのか、知らないんだ。あんたのことも……ちっとも、知らなかった」
「そうか」
うなずく有琉人は淡々としている。無関心にさえ感じられるその態度が、いまの朱にはありがたかった。
「正直くやしいよ。あんたは知ってんだ、あの子のこと。あたしよりずっと。こんなに大好きなのに。たいせつなのに。なんであたし、あの子のことなんにもわかってあげられないんだろう」
「それは」
いくらか食い気味に、有琉人は言った。
「家族だからだろう」
風が抜けた。
清かに、やわらかく、朱の肩をなでていった。
「家族だから、言わない。家族だから、わからない。そんなことはいくらでもある。と、思う。たぶん。まあ、そうだな――結局のところ、甘えているのかもしれぬな、互いに」
おだやかな炎を宿す目が、こちらを見ていた。
「余はそなたをうらやましく思う」
そのほほ笑みを、雲にやわらいだ月光がほのかに照らしていた。
美しい、と思った。その瞬間である。
「だがおおいにくやしがるがよい。華弥を抱くのは、余だ」
それをみずからぶち壊した有琉人が、大きく口を開けて破顔した。
「あんたそればっかだな!」
「当然であろう。王となった以上、女を抱くのは急務である。いやあ、楽しみだなあ……じゃなかった。責任重大だ。気が重い」
「嘘つくんじゃないよ」
「そなたも抱くぞ。みんな抱くぞ。そして産ませるぞ。覚悟しろ」
「あんたうちの妹が好きなんだよな? そうなんだよな?」
有琉人は声をあげて笑う。
「それとこれとは話がべつだ。余はもうおのれの感情だけで伴侶を求められる立場ではない。だから贔屓もせぬぞ。その必要もないだろうがな」
それから急に静かな、だが明朗な声で言った。
「余は華弥を信じておる。そなたもだろう、朱?」
朱はもう我慢ならなかった。
馬鹿にしないでほしい。そんなことは、聞かれるまでもない。
鼻を鳴らす。のけぞるほど顔を上げる。そして力強く、うなずいた。
「当然。あんたなんかよりずっとずっと、信じてる」
どこかで蝉が鳴いた。暑い夜だ。きっと明日も暑くなる。
胸のまえに手が差し出された。それを叩くようにして手のひらを合わせ、ぐっと握りしめた。